まほやく | ナノ







▼妻/今

 北の山間の小さな村に戻って来た。
 出発前にかけた守護の魔法はきちんと作動していて、みんなは元気に暮らしていた。
 静かだが暖かな村。大抵の者が、ここを終の棲家にする。
 私もそのつもりだった。暖炉の前に腰掛け、ジャム用に果物の種を取り除く。作業の合間に大鍋でスープを作り、夜更けに小さな歌を口ずさむ。

 中央を発つ際、妙な噂を聞いた。大いなる厄災が、近年どうにもおかしいと。
 新たな賢者の魔法使いが、数多く召喚された。南はみんな新顔らしい。そこにフィガロの名前もあった。ああそうか、今は南の魔法使いなんだ。
 いいところだよね。結局チレッタもあの国に移った。土地は痩せているけれど、穏やかな魔法使いたちが、人間と慈しみ合いながら暮らしている。
 私には合わないだろうな。結局そうだった。私たちは、合わなかった。


「ん?」

 ふいに、誰かに呼ばれた気がした。精霊の声かと思い、耳を傾ける。

「何か言った?」

 辺りを見回す。しんとしている。窓の外は相変わらず真っ白だ。

「……氷柱よけの魔法、そろそろかけ直そうかな」

 厚手のブランケットを肩に羽織り、玄関に近づいた。
 こん。こんこん。

「あ」

 ノックだと気づいた次の瞬間、鍵は勝手に解除され、冷たい吹雪が室内に吹き込む。びゅうびゅう荒々しい音がして、思わず目をすがめた。

「わっ、ちょっ」
「探した」
っ、雪が!」
「《ポッシデオ》」

 ドアが閉まる。室内が再びしんとする。静寂で耳が痛い。

「……南の魔法使いが、何しに来たの?」

 フィガロは何も言わない。私を見下ろして黙っている。
 肩や髪に雪が積もっていた。魔法を使えば良かったのに、気づいたら手を伸ばして雪を払っていた。

「しゃがんでよ」
「ごめんね」

 意味深に沈んだ声。目を見ないようにする。雪に触れ、指先が冷える。
 フィガロの肌は全部冷たかった。
 昔からそうだった。どこかひんやりと冷えた男だった。どこまでも底冷えする永遠の冬。この国そのものみたいだと思ったことさえあった。

「フィガロ」
「ん」
「言っておくけど、私はひとりぼっちじゃなかったよ」

 薪がぱちぱち爆ぜる。私と彼の心臓が、どくどく脈打ち続けている。

「あなたがいなくても生きて来られた。魔法と家族と、北の国があったから」
「……そうだね」
「だけど魔法も家族も北の国も、あなたの思い出に満ちていた。私の人生は、ずっとずっと、フィガロ・ガルシアと共にあった。だから私は、今でも魔法が使えるのかもしれない」

 人間たちの結婚式を、何度も何度も見てきた。華やかな催し。指輪やキス。祝福の喝采。誓いの言葉。
 私たちには何ひとつ存在しない。ただ代わりに、何ひとつ失うことはなかった。
《二人で幸せになる》。いつかの、独りよがりな願いを思い出す。私が私と結んだ、情けない約束。
 ふいに、フィガロが弱々しく口を開いた。

「俺はずっと、きみが死んだと思っていた」

 大きな手のひらが、私の頬を包み込む。おそるおそる、壊れものにでも触るみたいに。

「死んだから、約束がふいになったんだと思った。だから本当は、生きているきみに会った時点で、もう魔法は使えなくなるはずだった。だけど今でも、俺は魔法使いだ。きみが幸せだと知ったから」

 聞き慣れた呪文が、空気を揺らす。
 小さな花束が現れた。

「《君を幸せにする》。俺の、独りよがりな、約束だった」

 鮮やかな花々が、麗しい芳香を放つ。全部私の好きな花。
 目がくらむ想いだった。きっとフィガロも同じだと思う。もうずっと、バカみたいにすれ違っていた、ひとりぼっち同士の私たち。
 約束をしたつもりになっていて、約束を破ったつもりになっていた。
 本当はまだ、何ひとつ終わっていない。始まってもいなかった。

「約束なんかしなくても、俺たちは一緒に生きられるのかな」

 花束が差し出される。北の国の、ささやかな春を想う。

「結婚しよう」






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