回帰

     クモガクレ 2



サンルームに残ったリンゴの甘酸っぱい香りはいつまでも慣れず。
そろそろ頃合だとして、芽衣の様子を見に戻らなければと思うのに
ソファに沈めた身体は飲み込まれるばかりで浮上できずにいる。
それはきっと、自分を忘れた芽衣と向き合うのが怖かったからだ。

暗く冷たい廊下に立ち尽くしたまま夜を越え、
辺りがぼんやり明るくなって芽衣のいる部屋を覗いたところ
ベッドの上の人影はぐっすり眠っているようだった。
少しの物音では起きる気配がなく無防備な寝顔を晒しているあたりは
芽衣らしいなと思ってしまうけれど
目を覚ませばきっと自分の置かれている状況に慌て
今度こそ本当に故郷に帰ってしまうかもしれない。

こちらが何を言ったところで自分を責め続けるフミに
暫く暇を出したことを含め、当たり前にあった平穏が手から零れ落ちてゆく。
それは全て自分の責任であるとした鴎外は
毒殺に関与した、していない関係なく
親戚連中を自身の手で一掃すると決めていた。


「それで、鴎外さんは記憶を取り戻した彼女を家に帰すつもりですか?」


不穏な空気を察したのか、できるだけいつも通りを装い問うてくる春草を
些か面倒に思いつつ、鴎外はすっかり明るくなった窓の外へ視線を投げる。
一晩中つらつらと考え巡らせていたのは芽衣を帰すか帰さないかではなく
どうやって芽衣を引き留めておくかということだった。


「…一晩、あの娘を引き留めておく方法を考えているのだが、
どうにも手荒な真似しか思い浮かばない。部屋に鍵をかけるか、手足に枷を付けるか」


芽衣の命が脅かされた瞬間から、自身を縛っていた肩書きや周囲からの期待、
これから彼女と生きていくための努力までも、どうでも良くなった。
邪魔なものは排除し、欲しいものは何としても手に入れよう。
理性をなくした鴎外には芽衣の気持ちを考える余裕なんてなかった。


「鴎外さん、冗談でもそういったことを言うのはどうかと思いますが」


分かりやすく顔を顰める春草だが
その物言いはあくまで冗談ということで流そうとしているよう。
そんな彼の信頼を裏切るかもしれないことに少しの罪悪感が掠め、
「冗談であれば、良かったのだがな…」と小さく小さく呟いた鴎外は
重い腰をやっとこさ上げ、芽衣の元へ向かうことにした。

背中に痛いくらいの視線を感じながらサンルームを抜け出した先、
ふと、廊下の空気がひんやり冷え切っている気がして玄関のほうを見遣る。
何だか妙な胸騒ぎを覚えた鴎外は階段を駆け上がり、芽衣のいる部屋へ一直線。
ノックもなしに駆け込んだなら、予感通り、そこに芽衣の姿はなかった。


「っ、芽衣!」


どうして芽衣から目を離してしまったのかという後悔の中、
足が縺れながらも今来た道を引き返し、玄関の外へ飛び出す。
いつの間にか太陽は随分と高く昇っており、光溢れる世界は白とびして見えるほど。

少女は眩しい白に溶けて消えてしまったのではないかという予感が掠め、
ふと以前にも同じようなことがあったなと思い返す。
美人コンテストが行われた夜、暗闇にのまれる芽衣の後ろ姿に
もう二度と会えなくなるような気がして、必死に街中を探し回った。

あの時は芽衣自らの意志を持って鴎外の元に戻って来たけれど
今回、彼女には他に帰る場所があり
自分の意志で出て行ったのだから、希望を持つことはできなくて。
鴎外は今度こそ自分が芽衣を見つけなければと焦り、駆け出そうとした。


「っ、芽衣!」


向き直った先には変わらず眩しい光があって
その中から浮かび上がるみたいに近付いてくる人影は
自身の願望がみせているものかもしれないと一瞬でも疑いを持ってしまった。
けれど、こちらの姿に気付き、ぴたりと歩みを止めたその人は
光にぼやけることなく輪郭をかたどっており、間違いなく此処にいる。


「…っ、ごめんなさい」


やはり、あの時と同じ。何も変わっていない。
俯き加減で謝る芽衣は更に言葉を続けようとしたが
鴎外はそれを聞くことなく、駆け寄った勢いそのままに
小さな身体を腕の中に閉じ込めた。


「あの、鴎外さん…」


芽衣の口から名を呼ばれるのが随分と久しぶりに感じた。
鴎外の突飛な行動に戸惑っているらしい彼女は暫し腕の中で暴れていたが
抵抗すると益々強く抱き締められるだけだと気付いて、漸く大人しくなる。


「帰ってしまったと思った…もう、二度と会えなくなってしまうのではないかと」
「すみません…だけど、私、ここがどこなのか確認したかっただけで
ちゃんと戻ってくるつもりでした…それに」


はっきりと意思を持って伝えられていた言葉が突然詰まる。
言いたいことがあるのに、どう伝えたらいいのか分からない。
そんな困惑を芽衣がみせることは前からよくあった。

今までは、記憶喪失なのだからそれも仕方ないとして
いつか心の内を全て見せてくれる日まで待とうと決めていたのだが
いつ離れて行ってもおかしくない今の状況では
彼女の心が見えないことが何より不安で。
鴎外は芽衣を抱きしめた腕の力を緩めると
伏せられた困り顔を覗き込んで「それに?」と続く言葉を促した。


「それに、えと…私、帰り方が分からないと、言いますか」
「…お前は家のことを思い出したのではないのかい?」
「家は分かるんです。でも、それがすごく遠いところで…」


すごく遠いところ、彼女は以前も同じように話していた。
しかし、記憶を取り戻しても具体的な地名一つ出ることなく
あぁでもないこうでもないと適切な言葉を探している芽衣に
鴎外は愈々、彼女の故郷が何処なのか知りたくなってしまった。

そのため、芽衣がはっきり言葉にしてくれるまで逃さないとして
何も言わず、ただじっと見つめていたところ、
不意に今まで落ち着かない様子だった彼女がぴたりと動きを止め、
意を決したように顔を上げたものだから、
何だか、とんでもないことを打ち明けられそうな予感がして、喉が鳴る。


「あなたは、私が遠い未来から来たって言ったら…信じてくれますか?」


竹から生まれただとか、天から舞い降りただとか、考えてみたことはあったが
未来から来たなんて言い出されるとは、思いもつかなかった。
お伽噺であったとしてもかなり突飛であるせいか、疑うまでに至らず。
ただ「未来とは、どれほど先のことだろう」と素朴な疑問を零す。

そんな鴎外の反応が意外だったのだろう。
戸惑い交じりに100年以上も先だと答えた芽衣は
こちらの真意を探っているのか大きな目を細めて
「信じてくれるんですか?」と緊張を滲ませた声音で問うてくる。


「お前はハーバート・ジョージ・ウェルズが書いた
The Time Machineという作品を知っているかい?」
「…いえ」
「ある科学者が時間移動装置を開発し、未来へ旅行に出るという話でね。
僕はそれを読んだとき、あまりの奇抜さに否定の言葉も見つからず。
いつか本当に時空を移動できる時代が来るのではないかと考えさせられたのだよ」


発行されたばかりでインクの香りが閉じ込められた本を
駆け足で読んだ時のことを鮮明に思い返した鴎外が鼻息荒く話したなら
芽衣はぱちくり目を瞬かせたのち、自分のいた時代にも
タイムマシンのようなものはなかったと困り顔を浮かべる。

しかし、100年よりももっと先の未来で時間旅行の夢は叶うかもしれない。
そう付け足された芽衣の言葉には疑いは見られず。ただ希望で満ちていた。
それこそがこの世界と彼女のいた世界が違っていることの証明。


「この時代にタイムマシンが作品として生み出されていたんですね。
ウェルズさんって、一体どんな人なんでしょう…?」
「こらこら。お前が関心を寄せる相手は彼ではなく、僕の方ではないのかい?」
「…そうですね。鴎外さんは柔軟な考え方をされるんだなって感心しました」


そう言って、にこりと笑みを浮かべる芽衣に敵わないなと思いつつ
ここまで警戒と緊張で顔を強張っていた彼女が久しぶりにみせた笑顔に
鴎外は背負っていた肩の荷が僅かながら下りた気になる。

しかし、安堵してばかりもいられない。
芽衣が未来から来たということは、
帰ってしまえば二度と会えないという言葉が現実になる。
此処に来ることができたのだから、帰る方法は必ずあるはずだ。
彼女がそれを見つけてしまわぬよう祈るばかりというのは、心許ない。

帰りたいと望む彼女に対し、どうすれば自分だけを見てくれるようにできるだろう。
どうすればもう一度、自分を選ばせることができるだろう。
鴎外は必死に現在と未来を切り離す方法を考えてみたけれど
答えが見つかることはなく。時は流れ続けるのだった。





End


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