回帰

第一話 リンゴヒメ



月夜を思わせる黄色と紺色が鮮やかなドレスを身に纏い、
窓の外、夜の帳が下りゆく様を眺めていた。

今夜、鹿鳴館で開かれる夜会には有数の権力者が出席すると噂されており
これを機に森鴎外の婚約者の存在は知れ渡るだろうと意気盛んな鴎外とは対照的に
芽衣は過度な緊張で珍しく食欲も湧かず。
何事もなく今日を終えられるよう願うばかり。


「林太郎さんはお仕事が長引いてらっしゃるのでしょうか。
そろそろお帰りにならないと夜会に遅れてしまいますのに…」


今夜は春草も留守にするとのことで、夕餉を用意する必要もなく。
暇を持て余しサンルームにやって来たフミがぽつりと呟いた。
芽衣としては、鴎外を心配する気持ちと
このまま夜会に行けなくなれば良いのにと思う気持ちが存在し、
複雑な心境でぎこちなく笑みを返すだけとなる。


「そういえば、芽衣さんに贈り物が届いていたんですよ」
「私にですか?」
「はい。林太郎さんの叔母様が、どうしても芽衣さんにと」


先程から漂っている重い空気を断つように両手を一つ叩いたフミは
チェストの上に置かれていた包みを持ってきてくれた。
鴎外の叔母には何度か会ったことがあるけれど、
好意的に思われるどころか邪険にされるばかりであったため、何だか意外で。
包みを広げて、中に瓶入りのリンゴジュースが入っていることを確認しても
どこかに嫌がらせのようなものをされているのではないかと疑ってしまう。


「珍しい果汁飲料らしいですよ」
「私は叔母様に何か試されているんでしょうか…」
「それは分かりませんけど、喉越しも良く美味しいものだそうで。
朝から殆ど何も口にされていないなら、飲み物だけでも飲まれませんか?」


フミの話を聞きながらコルセットで締め付けられたウエストに触れた芽衣は
この分だと夜会でも真面に食事はできないだろうと思い、
用意してもらったグラスを受け取った。

フミも一緒に飲まないかと声を掛けたけれど
彼女はこれから予定を入れているらしく、
鴎外のことを含め、あとは芽衣に任せるとして帰り支度を始める。
途端に心細くなってしまうが、帰り際、気遣わしげに振り返ったフミが
やはり鴎外が帰るまで一緒に居ようかと声を掛けてくれたのに対しては
気丈に首を振って、どうにか彼女を見送った。



「リンゴジュースか…」


一人きりになった部屋の中、瑞々しく爽やかなリンゴの香りが漂う。
グラスに注いだそれは色も香りも濃厚で
リンゴを絞ったというより溶かしたといったほうが正しいのかもしれない。

芽衣は早くも憂鬱が晴れたような気になりつつ、グラスのふちに口を付けた。
渇いた喉に流れ込んでくるジュースは味が濃く、
独特の甘酸っぱさと鼻に抜けるリンゴの風味は少しだけ飲み難くさを感じる。
だからといって、味が後に残るわけではなく。


「うん…美味しい」


幾分すっきりした表情で、もう一口飲もうとグラスを持ち上げた次の瞬間、
手先に力が入らなくなりグラスを滑らせ落としてしまう。
パリンッと派手な音に驚き立ち上がったところで
両手と同じく足の感覚も失われたために、崩れ落ちるように床に倒れこむ。


「っ。な、に…これ」


末梢から中枢に向かって全身の機能が停止していくみたいに
視界は霞み、肺は呼吸を止め、心臓の鼓動は小さくなっていく。
痛いのか苦しいのか、自身に何が起こっているのかも分からず。
考えようにも、ぼんやりとした意識の中では
眠りに堕ちてしまわぬようしがみつくのに必死で。

このまま目を閉じてしまったら、
二度とこの世界に戻ってこられないのではないかという予感に
恐怖を感じながらも、意識は強く引っ張られ、世界は黒く塗りつぶされた。






To be continued…



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