壊劫

01.透明の世界



決意通り、全てを終えて戻って来ると
病室には担当医と和やかに談笑する彼女がいた。
止まっていた時間が動き出す音を聞きながら
自分がしてきたことは間違いではなかったのだと思った。
彼女への想いが神様に通じて助けてくれたのだと
凍り付いていたはずの心で、本気でそう思ったのだ。


「彼女は事故前の3ヵ月、つまりは6月からの記憶を失くしているようです」


今度こそ彼女を守ってみせる。
そう決意した矢先、イッキに気付いた彼女は笑顔を一変。
どうしてあなたがここにいるのかと聞きたそうに首を傾げたから
現在の喜びも未来への期待も波のように引いていく。
そこに残った不安を呆然と見つめながら医師に説明を求めれば、
何とも単純で厄介な“記憶喪失”という答えが返ってきた。

6月といえば、彼女がイッキを好いていなかった時期だ。
先程まで笑顔が咲いていた彼女の表情がすっかり曇ってしまったことからして
イッキが告白したことや3か月という期間限定で恋人になっていたことも
覚えていないのだろう。


「記憶は戻るんですよね…?」
「それは何とも…しかし、記憶を失ったから彼女は目を覚まし
平静でいられることを考えて、無理に思い出す必要はないでしょう」


心を閉ざしてしまう程の恐怖とはどのようなものなのだろう。
それを思い出した時、彼女は再び世界の狭間に閉じ籠ってしまうのだろうか。
あの色褪せた日々に戻りたくなくて、思い出してほしくないと思う反面、
この3ヶ月、2人で過ごした時間が忘れられていることが悔しい。


「数日様子をみて、生活に支障がないようなら退院しても大丈夫でしょう。
退院後はあなたが面倒をみられるとのことでしたが…
状況も変わりましたし、彼女と話し合ってみてください」


彼女が心を失ったままでいたなら、
近いうちにイッキが引き取ることになっていた。
そしてそれは彼女の父親も了承済みではあったのだけれど
状況が変わったことで実家に連れ戻しに来るかもしれない。
何より、今の彼女はイッキの元に来ることを良しとしないだろう。

彼女に好きになってもらえるよう頑張るのはいくらでもできる。
だけど、彼女を守るというのは今の自分では難しいかもしれない。



「っ、だからね。僕は…えと」
「事情は分かりました」
「…え?」
「この3ヶ月間、私はイッキさんと期間限定でお付き合いしていたんですね。
そしてその最中、事故に遭って自分を失っていた私を
イッキさんが面倒みてくださっていた」
「うん…」


傍からは記憶を失った彼女よりも
イッキのほうが混乱しているように見えていたかもしれない。
実際、久しぶりに彼女と会話ができる喜びと
拒絶しないでほしいという怯えで、頭の中は雑然としている。

それでも、彼女をあまり刺激しないように
必要なことだけを掻い摘んで話したつもりだ。
嘘は吐きたくなかったが、彼女のためにどうしても必要で。
言葉の節々に明らかな解れがあったことは自覚している。

そんなイッキに彼女は戸惑っているようだったが最終的にイッキを受け入れた。
彼女が目を覚ましたことを含め、上手くいきすぎているような気がして
逆に不安になる自分はどこまでも臆病者だと思う。


「僕の言ったこと、信じてくれるんだ…」
「はい。実際に私が知らないうちに月日は流れていますし…
それに私が入院している間、イッキさんが毎日のように
お見舞いに来てくださっていたと看護師さんに聞きましたから」


今の彼女にとってイッキが恋人だなんて例え仮とはいえ、とんでもない話だろう。
しかも、彼女のマンションは引き払い済みで
そこにあった荷物はイッキの部屋。彼女の父親もそれを認めている。
周囲を完全に固められ、イッキを受け入れざるを得ない状況は
イッキが思うのも何だが、彼女があまりに不憫だ。


「あの…イッキさん」


唐突に彼女の方から声を掛けられてドキリとした。
ここまで話を聞いて、今を把握した彼女は何を思うのだろう。
今の自分はイッキを好きではないと拒絶するのか。
一緒に暮らすことはできないと父親の元へ行くことを選ぶのか。
他にも幾つかの可能性が思い浮かんだけれど
どれもイッキにとっては悪いことばかりだった。

だから「私はイッキさんのことを好きになっていましたか?」と
彼女が問うてきたことに、ひどく驚いた。


「え、と…」
「イッキさんは3ヶ月で私を落とすと言ってくれたんですよね?」
「…うん。凄く頑張って、凄く楽しい日々だったよ。
でも、君が僕を好きになってくれていたのかは分からない。
もしかして好きになってくれたんじゃないかって思ったこともあるけど
直接、君から言葉を貰っていないから…分からず仕舞い」


思えば、彼女は8月から変わってしまった。
あの時にちゃんと話を聞いていれば何かが変わっていたのかもしれない。
いつもと様子の違う彼女に合宿なんて、肝試しなんて止めておけと
どこかで一声掛けていたなら、こんなことにはならなかったのかもしれない。

後悔をつらつらと挙げていっては両手が足りなくなりそうだ。
何より、思い返していくうちに彼女を好きにならなければ
彼女と出会わなければ良かったなんて思いに行き着きそうで。
意識を無理矢理に今の彼女へ戻したなら
弱気な自分を見透かしたような真剣な眼差しを向けられていることに気付く。


「イッキさんは私が好きなんですか?」


彼女が口にした問いに8月のとある日が蘇る。
熱に浮かされながらも、視線は真っ直ぐ逸らさずに問うてくる彼女へ
素直に自分の想いを伝えたのはイッキの中でくすぐったくなるような思い出。

そして、その答えは今でも変わらず。
想いが全部届けば良いのにという願いを込めて「好きだよ」と伝えた。


「記憶がない私でも、ですか?」
「どんな君でも変わらない。大好きだから、
君にも僕のことを好きになってもらいたい。
だから、傍にいさせて。僕に、君を守らせてほしいんだ」


真剣に、そしてほんの少しの緊張を滲ませて答えたなら
彼女はただただ驚いているようだった。
恋愛にだらしがないイッキしか知らない彼女なのだから、
その反応は当然なのかもしれないが、
イッキとしては、清算した過去と向き合わされるようでバツが悪い。


「今の私はイッキさんのことを良く思っていません」
「うん。分かってる…でも、僕は変わったんだって知ってほしい」
「イッキさんのこと、知りたいです。なぜか凄くそう思っているんです。
私があそこに入ったのも…っ、私が入ったのは」
「どうしたの?」
「私、何か大事なことを忘れてる…
イッキさんのことを知りたいと思ったのは初めてじゃない。
知りたいと思った私は…何かに入った?」


独り言を溢しながら薄らと残る記憶を辿っていた彼女だったが
次の瞬間、何かに怯えたように顔を強張らせ、震え始めた。

それでも、あの夜の恐怖に手を伸ばすことを止めない彼女に
イッキはぞっと背筋が凍りついた。
また彼女を失うかもしれないと焦って
彼女の名を呼び、震えた手を同じく震えた手で強く握れば
存外早く現実に戻ってきた彼女と視線が交わる。
そして、彼女は自分が何に怯え震えていたのか
イッキが何を焦っているのか、分からないといった顔をした。


「今は何も考えなくて良いから…僕のことだけを見ていて。お願いだから」


彼女は自分がFCに入っていたことだけでなく
FCという存在自体も忘れているようだ。
それはイッキにとって好都合ではあったけれど、
今のように思い出される可能性があることに不安が募る。


「私、どうしたら良いのか分からないんです。
今こうしてイッキさんに手を握られていることも、
イッキさんが私のことで必死になっているのも…変だって思うんです」
「うん…でも、それが今だよ。思い出さなくても良いから、知っていって。
そしたら僕はすぐに君の心に溶け込むから」
「…自信があるんですね」
「自信なんてないよ。僕は一度失敗してるわけだし…
だけど沢山後悔して、あの時の僕の何がいけなかったのか分かったから
もう間違えない。上手く君を愛するよ。周りなんて気にしない、
時間に焦ったりしない…何の犠牲も厭わない」


何より、彼女が知りたいと言ってくれたことに救われたのだと思う。
イッキ自身も最初は彼女のことを興味の対象として見ていた。
けれど、彼女を知っていくうちに好きになって。
今ではすっかり惚れ込んでいるのだ。

そのことを彼女に話したなら、彼女はすっかり緊張が解けたのか
「私はそんなに単純じゃないですよ」なんて言葉とクスクス笑みを返された。

久しぶりに向けられた笑顔はやっぱり綺麗だった。






End


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