雪解ケノ跡ニ
鴎外→芽衣
恋月夜の花嫁 第五章


足元を濡らしていた水が引いていく。
先程から慌ただしく駆け回っている警官らは
事態が収束に向かっていることにまだ気付いていない。
そして、不忍池で何が起こったのかなんて誰も分からない。

とはいえ、鴎外にとっては事態収束もその理由もどうでも良いことだった。
ただ、芽衣が戻ってきてくれたならそれだけで十分で。
彼女の無事を祈っていたのだけれど
騒動を含め、不忍池を取り巻く全てが呑み込まれてしまったかのような
物陰ひとつ捉えられない暗闇を見ていると、胸騒ぎがして。
カンテラの光で闇を切り裂くように、駆け出していた。

引いていく水際を追いかけて、奥へと進むにつれて足元の泥濘はひどく、
重たい空気に溶けた水の匂いは強くなり
鴎外自身も暗い水底に沈んでいくような感覚を受けてしまう。


「芽衣!いるなら返事をしなさい!」


ぱしゃぱしゃと泥を弾く足音以外、音を失くした世界。
不安から必要以上の声をあげたものの、それに対しての返事は期待薄であった。
そのため「誰かいるのか?」と息も絶え絶えな声とともに
木々の間に人影が見えたことにひどく驚く。

不安定に揺れる炎で人影を照らすと
全身ずぶ濡れで今にも倒れてしまいそうな青年と、
その背中に負ぶさって、ぐったりとした芽衣の姿が確認できた。
漸く見つけたというのに、身動き一つせず
色を失くした身体から水を滴らせるばかりの彼女に
嫌な予感が掠めた瞬間、鴎外は「芽衣!」と名前を呼んで駆け寄った。


「っ、森さん…この子、呼吸はしてるけど目を覚まさなくて」


カンテラの眩しさに目を細めていた青年は
光に目が慣れると状況を把握したらしい。
早口で芽衣の状態を伝えてくれる。

彼女の死が頭を過ったこともあって
呼吸をしているという言葉に救われると同時に
僅かながら冷静を取り戻した鴎外は青年が泉鏡花であることを知る。
そして、芽衣から預かった戯曲を思い出しつつ
「一体何があったんだい?」と尋ねた。

その間に、引き受けた芽衣の身体は冷たくて
本当に生きているのか不安になってしまったが
肩に掛けてやった上衣ごと強く抱き締めたなら、
はっきりとした呼吸と鼓動が伝わってきて、鴎外は漸く安堵する。


「僕は竜神を鎮めるだけで精一杯で…
気付いたら、限界を迎えた身体が水底に沈んでいた。
だけど、薄れる意識の中で誰かが手を掴んでくれたのを感じて…」


次に目が覚めた時には、池の畔にいて
その傍に気を失った芽衣がいたのだという。
鏡花は、命の恩人だからというわけではなく、
心から芽衣のことをを心配しているようで
「芽衣は大丈夫、ですよね…?」と不安を溢すから
鴎外は衰弱がみられるが温かくして休めば回復に向かうだろうと答えた。

とはいえ、自分が軍医であることを忘れるほどに
芽衣が目を覚まさなかったらどうしようという怯えを引きずっているのも確か。
彼女を探して駆け回っているとき、鏡花に背負われた姿を見たとき、
世界が真っ暗になって、希望を抱くこともできなかった。

芽衣の髪から落ちた雫が頬を伝うのを見て、
親指の平で拭い取った鴎外は、早く笑顔を見せてくれと願う。


「あぁ、そうだ。これを…芽衣から預かっていたのだった」
「戯曲…」
「芽衣は戯曲を守るため、僕に託したのだよ。
僕から返されるのは不本意かもしれないが…
泉君に戯曲を返すことが芽衣の願いだ」
「芽衣の気持ちは、分かっています。だから…ありがとうございます」


戯曲を渡された時は、この世の心残りを託されたような気になって。
なんとまあ、残酷なことをするのだろうと思ってしまったけれど
芽衣が傍らにいる状況下で返すことができて良かった。

戯曲を手に「これで完成できる…」と呟く鏡花に対し
すっかり胸の内が軽くなった鴎外は、芽衣を見遣ったのち
「この子とともに完成を楽しみにしているよ」そう伝えた。


「さぁ、もう行きなさい。直に来るであろう警官らに見つかると厄介だ」
「でも…芽衣は」
「無論、僕に任せてくれたまえ」
「…」
「心配せずとも、芽衣は元気になれば僕が止めても君に会いに行くだろう」
「止める気ですか!」
「生憎、僕は嫉妬深い男でね。
特に君は今回のことで警戒を強化せざるを得ない」


理由はどうあれ、繋いだ手を解いて駆けて行く芽衣の姿に傷付き、
後悔と恐怖に呑まれる感覚を含め、
これから先、傷痕が消えることはないと思う。

鴎外の心の内を知る由もない芽衣は
これからも自分の信じた道を進み、時に無茶をするのだろう。
そして、彼女の一生懸命で真っ直ぐな生き方に
惹かれる男は後を絶たないはずだ。

そんなことを考えながら鏡花へ目をやれば、
彼は分かりやすく頬を赤らめて狼狽えている。
のちに、芽衣への好意を気付かれまいと捲し立て、
逃げるように去っていくから鴎外は物憂いに見送ることしかできなかった。


その後ろ姿が見えなくなったところで
芽衣に視線を戻した鴎外は、力の抜けた身体を軽々と横抱きにすると
簡単に腕の中におさまってしまう彼女に対し、悩ましげな表情を浮かべる。

芽衣を失わずに済んで良かったと、今更ながら緊張が解けて
込み上げてくる甘く切ない想いが温かい涙となって芽衣の頬に落ちる。
鴎外が考えているよりもずっと彼女への想いは強くて、
自身をこんなにも狂わせてしまうらしい。

芽衣が目を覚ましたとき、言いたいことは山ほどある。
鴎外は随分と重たいそれとともに彼女を抱えて
一先ずは夜を抜けるために歩き出した。







End




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