紅射ス岐路、月指ス帰路
鴎外→芽衣
恋月夜の花嫁 第五章 捏造&悲恋


増水が治まったという一報を受けて
藤田を含め警官とともに不忍池に戻ってくると
雲から顔を覗かせた満月が映し出す穏やかな夜の景色に
溢れ返っていた池の水がまるで物の怪が見せたマヤカシであった気になる。

しかし、辺りを漂う空気には雨上がりのような水の匂いが残っており
水気を含んで歩き難くなった砂利道を含め、
ここで何があったのか不気味に物語っているようだ。
鴎外は益々の胸騒ぎを感じつつ、早く芽衣を見つけなければと
その名を呼びながら歩みを進める。


それから間もなくして「ここに人がいるぞ!」という警官の声が聞こえてきた。
呼び掛けに対する芽衣の返答ではなかったものの
逸早く反応をみせた鴎外は、傍らにいた藤田を押し退けるような勢いで
カンテラの光が幾つも揺れる池の畔へと駆け寄る。

どうか無事でいてほしいという想いが激しく胸を打つ中で
息を荒くしてそこにいた警官らの間を割って入っていったなら
その先に、全身ずぶ濡れで立ち尽くす泉鏡花の姿が見えた。
彼を心配するより先に辺りを見回して、芽衣の姿がないことに酷く落胆した。


「泉君…芽衣は?」
「っ。いなく、なりました…」


鏡花は濡れて肌に張り付いた髪を、頬を伝う雫もろとも払い除けて
悲しげな瞳を見せると、夢の中の出来事を話すみたいに朧げに答える。
知らない、ここにはいない、ではなく、いなくなったという答えが引っ掛かり
鴎外が更に質問を重ねようとしたところで
それを先読みした鏡花は空に浮かぶ満月を睨んで、口を開く。
芽衣はこの世界から消えたのだと。


「それは、どういうことだろう…?」


疑問を溢してみたけれど、
芽衣が鴎外の元に戻ることはないととっくに気付いていた。
本当は戯曲を託して去っていく後ろ姿を見たときから
こうなることが分かっていたのかもしれない。

増水が治まり、淀んだ空気が晴れると同時に
分厚い雲から真っ赤な満月が顔を覗かせてからずっと感じている胸騒ぎも
月の光が彼女の家路を照らし出したからなのだろう。

それでも、芽衣が自らの元に戻ってくるという希望が消えずにいるのは
『すぐに戻るから大丈夫ですよ』そう言って微笑んだ芽衣が
鮮明に残っているからだ。


「一緒に池から上がって直ぐ、芽衣の気配が消えたんです」
「本当に一緒に上がってきたのかい?まさか、まだ池の中にいるなんてことは…」


物の怪のように突然現れたかと思えば平穏を掻き乱して
相容れぬべきではないと気付いたなら、姿を消すのが必然。
そんな悲しい結末があっていいはずがないと
現実を受け入れられない鴎外は芽衣から預かった戯曲を胸元から取り出し
「あの子は、戯曲の完成を心待ちにしているのだよ」そんな言葉とともに
鏡花に返却し、彼女が完成を見届けずにいなくなるなんてことは有り得ないと
他の誰でもない自分自身に言い聞かせた。


「ちょっ!森さん、何をするつもりですか!」
「芽衣を早く見つけなければ…」
「なっ、こんな暗い池の中を無茶です。
第一、本当にあの子が池にいると思っているんですか?」


鏡花の問いに言葉を詰まらせるも水面に浮かぶ満月に向けた足先は揺らがず。
今にも池の中に飛び込んでしまいそうな勢いの鴎外だったが
不意に強く腕を掴まれ、現実へと引き戻されてしまう。

腕から視線を辿るようにして顔を上げれば、
いつもは寡黙で感情を表に出すことをしない藤田の
悲嘆に歪む表情がそこにあって、驚いた。

鴎外が唖然としている間にも藤田は「あの娘の捜索は我々が引き受けよう」と
周りにいた部下に指示を出し、事態は慌ただしく動き出す。


「娘が戻っているやもしれん。軍医殿は早々にお引き取り願おう」
「…しかし」
「娘を見つけ次第、すぐに連絡する」


藤田は有無を言わさず言葉を並べ立てると、
踵を返し、既に捜索を開始している部下らの元へ向かった。
そんな彼の後ろ姿を歯痒い思いで見送った鴎外は
今までの話を聞いて納得したらしい鏡花に促されるようにして
自宅へ戻るべく、歩き出した。

その足取りは重く。いつまで経っても暗闇から抜け出せず
そのうち、自分が歩いているのかさえ分からなくなってくる。
『きっと、すぐに戻ります。必ず戻りますから』
その言葉だけを信じて待ち続けるというのは
気力、体力を相当に消費してしまうらしい。
それこそ、水の中にいるみたいに、意識が薄れていく。

このまま芽衣に会えなければ、きっと溺れてしまう。
鴎外は水底から光を見上げるように、満月を仰いで呼吸を止めた。






End




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