透明世界の片隅
イッキ→(←)主
やるじゃない、神様END


食パンの袋をぐしゃぐしゃに丸めて、ゴミ箱に放った。
冷蔵庫を開けてみても、あるのは調味料とミネラルウォーターくらい。
日頃から外食が多いため、この家に食べ物がないのも仕方ない。
それに、取分け何か食べたいというわけではなかった。
食欲なんて生気と一緒にすっかり抜け落ちている。

起き抜けに齧ったパンも中々喉を通らず
殆ど水で流し込んだのだが、すぐに吐気に襲われた。
それでも空腹を訴える胃を誤魔化すために
冷蔵庫で冷えたミネラルウォーターを飲み干すが、やはり気分は優れない。


「何やってんだろ…」


広すぎるベッドに倒れ込んで呟いた。
床に落ちている携帯は煩わしい着信音を止めるため
叩きつけた拍子にカバーとバッテリーが外れて、そのままになっている。
壁に掛けられた時計があれから何周したのかも分からず。
世界から孤立したような気分のまま、目を閉じる。
このまま、眠り続けていられたら良いのにと思った。

しかし、世界は必死に現実へ引き戻そうとしているらしい。
玄関からの呼び鈴の音が残酷に生きろと言っているようで
咄嗟に身を丸めて聞こえないふりをした。



「イッキさん…聞こえてますか?」


遠慮がちな彼女の声に肩が震えた。
食べ物も音も時の流れも、この世界を全て拒絶し続けていたというのに
彼女の声だけは、すんなり受け入れられて乾いた心に広がる。

「どうして」という疑問が掠れた声になって表に出た。
信じてないくせに、怖がっているくせに、何も分からないくせに。
拒絶しようと彼女を責める言葉が次々と溢れてくる中で
会いたいと思う自分がいる。


「イッキさんがずっとバイトを休んでいるのは私のせいですよね」
「…それでわざわざ会いに来るなんて、良い度胸だね」
「冷静になって考えて…
あの時のイッキさんだけは信じられないと思ったんです」
「押し倒されて、怖がってたくせによく言うよ」
「私はイッキさんにそこまでさせるくらい傷付けてしまった。
本当のことを話す勇気がなくて、騙していたことを謝りたかったんです」
「…」
「でも、私にとってイッキさんは希望で…信じたかったのは本当だから。
怖かったのは期待を裏切られること。希望を失うこと。
イッキさんのことを知ろうと必死だったって分かってほしいです」


彼女は警戒心が強く、一歩引いて周りを見ることができる冷静さがあって
なかなか心を開いてくれない子だと、誰よりも分かっているはずだった。
記憶を失くしたら余計に心を閉ざしてしまうことくらい理解できるのに
どうして責めてしまったのだろうと、今更ながら思う。

彼女がこの目に惑わされずにイッキ自身を知って理解してくれたことを
忘れていたのは自分のほうだった。


「信用できるか分からない人に記憶喪失だって打ち明けたあと、
何を聞いても私はきっと信じられない。
何もかもを疑って、余計に何も見えなくなると思うんです。
だからって今回のようなことを繰り返すべきでないことは分かります」


記憶を失くしても側にいて知ろうとしてくれた彼女を
混乱させたのは自分だととっくに気付いている。

彼女が記憶喪失だと分かったなら、
伝え続けて、知ってもらう努力をすべきだった。
FCのことで彼女を傷付けておきながら
信じてほしかった、なんて勝手すぎる自分に嫌悪する。


「ずっと、頼れる人を探していました。自分のことで必死だったんです。
記憶を失くした時点で本当のことを言って、離れるべきだったんですよね。
私は今までの私じゃないって割り切るべきでした」
「…」
「勝手だって思われるかもしれませんが、
過去を振り返るのは止めて、一からやり直したいんです。
実家に戻って…私のことを誰も知らないところから始めます。
もう誰も傷つけたくないからと言い訳して
逃げることを選んだと思ってもらっても構いません」


扉の向こうから聞こえてくる寂しげな声と微かな物音に身体を起こした。
この世界に希望も未練もなかったはずなのに彼女から別れを告げられて、
水中に突き落とされたかのように上手く息ができなくなると
苦しみと混乱の中で生きたいと思った。彼女に会いたいと望んだ。


「イッキさんも私のことを忘れてください。
イッキさんを傷付けた私なんて嫌いになって
記憶がなくなった時点でイッキさんの知っている私は消えたんだって…」
「待って!」
「さようなら。イッキさん」


ベッドを蹴って玄関へと急ぐ。
ここ数日、怠く思っていた身体がふわふわと軽い。

真面に食事をとっていなかったせいか、
彼女のお蔭で気持ちが軽くなったからなのかは分からないけれど
慣れない身体に、足が縺れる。


どうにか玄関に辿り着き、重たい扉を開ければ
そこは思わず目を細めてしまうほどの光で満ちていた。
そして、光の先に見えるのは。







End



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