赤い花が咲く世界
イッキ→主→シン
スペードの世界 捏造


冥土の羊は閉店時間を疾うに過ぎ、事務所は帰り支度に慌ただしい。
この後、予定があると言っていたミネのものと思われる
キツめの香水の香りはいつまで経っても慣れなくて。
感覚を共有しているオリオンが帰る準備が整うなり
「よし。じゃあ、帰ろう」と急かしてくるほど。


「あのさ。ちょっと話したいことがあるんだけど」


不意に聞こえてきた声はタイミングを計っていたのか妙に勢いついていた。
この場にいるのは自分を除くと1人であるため
察しを付けるまでもなくロッカーの扉を閉めたなら、
その向こうには案の定、シンの姿があって。
彼の冷めた性格と無遠慮な物言いに少しばかり苦手意識があり
「な、何ですか?」と身構えた返事をしてしまう。

彼から仕事のことで注意を受けることは多々あるけれど
こうして改まられると知らぬうちに表情が強張ってしまう。
オリオンが「今日は目立ったミスもなかったと思うけどな」なんて
安心させるような言葉をくれるが、あまり意味はない。


「単刀直入に聞くけど…あんた、記憶混乱してんじゃない?」


ここまで、それなりに上手くやって来たつもりだった。
体調が優れないのも手伝って、親しい友人も恋人も気付いていない。
それなのにどうしてと激しく動揺してしまう。
鋭いシンのことだ。この時点で疑惑が確信に変わったことだろう。
迷いなく見つめてくる視線が痛い。

俯かせていた顔を僅かに上げて縋るようにオリオンを見れば
彼も同じように動揺した様子で「え、と…どうしようか」と頬を掻く。


「8月入ってからだよな。様子が変わったの。
仕事内容も分かってなかったみたいだし、イッキ先輩とのことも。
距離ができたどころか、付き合ってる理由も分からないみたいだった。
そのくせ、イッキ先輩を取り巻く状況に無警戒で危なっかしくて…」


まるで探偵の推理で追い込まれていく犯人の気分だ。
シンの話を何一つ否定できない。

記憶がないことを隠していたなんて
相手からすれば気分が良いものではないだろう。
病院に連れて行かれること、記憶がないのを利用されることよりも
ここで関係が壊れてしまうことが怖いと今更気づく。


「否定しないってことは、そういうことなんだな。
どうしてそうなったかは聞かないけど…記憶は?何が分からないわけ?」


「分からないことより、分かっていることを聞くほうが早いです」と
先に口を開いたのはオリオンだった。
こうなってしまったのは、こちらのミスというよりも
シンが鋭かったと思うべきなのかもしれないけれど
記憶喪失が周囲にバレないように協力し合っていたこともあり
彼はひどく落ち込んでいるよう。

そんなオリオンに申し訳ない気持ちになりながらも、全てを話す覚悟を決めて
8月までの記憶がないこと、記憶は不意に断片的に蘇ってくることを
正直に白状したなら、今度はシンが驚いたように目を見開いた。


「マジかよ…何で誰かに相談しなかったんだよ?
つか、何で誰も気付かないんだよ」


大きく溜息を吐いたシンに怒られることを恐れ、肩を震わせてしまったが
彼は周囲の人間に呆れているらしい。

こちらとしてはシンが気付いたことが不思議でならないという思いで
毎日のようにバイトで顔を合わせていた日々を振り返る。
しかし、思い返したところで、シンは周囲に無関心という印象が付いてくる。
親身になって話を聞いてくれている今の状況だって信じられないくらいだ。


「何も分からなくて、誰を信用すれば良いのか悩む気持ちは分かるけど
イッキ先輩には話したほうが良いと思う…
まぁ。俺が信じられないなら、こんなこと言っても無駄か」
「…」
「自分で信用できるか判断したいって言うならそれでも良いけど…
これからは状況を知ってる俺を少しは頼ってほしい」


オリオンの反応が気になって怪しまれぬよう視線を向ければ
「こうなったらシンを頼ったほうが良いかもしれないね」と答えをくれる。
一番頼りにしているオリオンがそう言ってくれたことに安心して
迷いなく頷いて答えれば、シンの表情が僅かに和らいだ気がした。


「じゃあ、まぁ…分からないことがあったら聞いて。
仕事しか接点ないから、教えられることは限られると思うけど…
って、やっぱり俺じゃ役不足だよな…くそっ」


何もできない自分が歯痒いのだろう。
ふっと視線を逸らして、頭を掻くシンの姿からはいつもの余裕が感じられなくて
「これ、本当にあのシン?」というオリオンの言葉に思わず笑ってしまった。


「何?」
「あ、えと…ありがとうございます」
「…」
「嬉しかったんです。私を分かってくれたことが」


笑っていたはずなのに、いつの間にか涙が零れていた。
1人で不安だったからなのは勿論。
記憶がないことを隠していながらも、
本当は気付いてもらえないことが寂しかったのかもしれない。

涙を見られたくなくて俯けば、床にぽつりぽつりと雨が降る。
次第に激しくなるそれを見兼ねてか
シンの手が伸びてきて、肩に触れると同時に胸に閉じ込められた。


「っ、あの…」
「今まで、よく頑張ったな」


シンのことを誤解していたようだ。
本当はこんなに優しくて温かい。
そんな彼にもう少し甘えていたいと思う心を誤魔化すために
彼の上着が涙で濡れてしまうからと言い訳して、そっと距離をとれば
シンは我に返った表情で自らも数歩距離をあける。


「悪い。こんなとこイッキ先輩に見られたら怒られるよな。俺が…」
「え…?」
「あんたは先ずイッキ先輩に執着されてるってこと自覚したら?
まぁ。FCとか何とか、面倒事はあるんだろうけど…それを踏まえて、
先輩は色々考えて、あんたのことを大事にしようとしてんじゃないの?」


そんな問いかけに、塞き止めていたイッキの想いが流れ込んでくる。
甘くて優しくてふわふわな気分になるそれだが
目を擦ってよくよく見れば淡い感情ばかりではない現実に襲われる。
まるで夢現を行き来するような状態で
彼とどのように向き合えば良いというのだろう。


「分からないのはイッキさんのことだけじゃなくて…
私、本当にイッキさんのことが好きだったんでしょうか?
少なくとも、今の私にはとても手に負えません」
「はぁ…記憶失くす前のあんたも言ってたよ、それ」
「え?」
「イッキ先輩のこと好きなのかって疑問に思ってた。
彼女になって、FCにヤキモキしながらそんなことを言うから
訳が分からなかったけど…」


イッキへの想いをシンの口から聞いていると何だか心が波打つ。
同時にシンがそこまで知っていてくれたことに妙な期待をしてしまった。
これは現実逃避というやつなのだろうか。

イッキのことを考えているはずなのにシンが頭から離れない。
それではいけないと「1人でゆっくり考えたい」そうシンに伝えれば
彼は何事もなかったかのように「ん…引き留めて悪かったな。お疲れ」と
淡泊に告げて、事務所を出て行く。
いつも通りのはずなのに寂しいと思ってしまった。


「なんか、僕。途中からフェードアウトさせられた上に
君とシンの良い雰囲気見せられて、何か複雑なんですけど」


拗ねたように現れたオリオンに対し、何も言えずにいると
彼は「君、大丈夫?」そう言って、目の前で手を振ってみせられる。

思い出したようにこくりと頷いてはみたが
心は揺れたまま落ち着かない。
それは天秤というよりも、穏やかな波の上を漂う小瓶のようで。
この気持ちがどこに辿り着くのか。
将又、最初に選んだこの世界が本当に自分が進むべき道だったのか。
赤く色づいたハートを宿し、自問自答を繰り返すのだった。






End




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -