熱帯魚の眩暈
イッキ→←主
8月前


エレベーターから出るとエントランスに漂う冷たい空気に身体が震えた。
寒さに加え、オートロックのガラス扉の向こうに
女性らしい人影が見えたものだから
面倒事を避けて、出掛けるのを諦めようとさえ思った。
しかし、ガラスの反射で顔の見えないその人があまりに落ち着きなく
悩んでいるような、困っているような素振りだったのが気になって
考えとは裏腹にその人の方へ歩き出す。

部屋の番号が分からずにいるのか、訪ねてきた相手に会うのを躊躇っているのか。
いくつか予想を立ててみた中に
その人が記憶喪失になっていて自宅が分からずにいる、なんて
有り得もしない考えが思い浮かんだ自分は何ともらしくない。

ふと我に返って、やはり面倒事に巻き込まれることを避けようと足を止めたが
もう遅いとばかりに目の前の自動扉が開いてしまう。
一層、冷たい空気が漂うそこにいた人もこちらに気付いたらしい。
まるで疾しいことをしているのがバレたとばかりに肩を震わせて振り返る。

途端、瞳に映るその人の姿に鼓動が跳ねた。
こちらと同様に驚きを見せる表情を捉えたのが
サングラス越しであることを惜しく思えるほどに愛おしいその人。
どうして君が、と問う前に向こうも驚きをそのままに
「イッキさん…どうして」と疑問を口にするから
2人の間にある空気は戸惑いに揺れる。


「あの…体調が悪いんじゃ」


落ち着かない沈黙を破ったのは彼女の方だった。
いつもなら、彼女を前にした次の瞬間には優しく笑みを浮かべて
甘い言葉を囁くことができるのに、今日に限ってはそれができない。

彼女の言う通り、体調が悪いのだ。
自分ではだいぶ良くなってきたと思ったのだが、なんて
頭の中で言い訳するばかりで返事をせずにいると
彼女は不安の色を濃くするから、変に期待してしまう。


「もしかして、お見舞いに来てくれたの?」
「っ…」
「え。本当に?」


例え本当にお見舞いであったとしても
照れ屋な彼女は何かの序でだとか偶然このマンションを訪ねただけだとか
必死に否定の言葉を口にすると思っていたため
震える口元をぎゅっと結んで困ったように視線を落とす反応は意外だった。

そして、気付かれる前にと持っていた買い物袋を
じわりじわり後ろへ隠そうとしていたため、一層の期待を込めて彼女の名を呼ぶ。
途端、肩を震わせた彼女は「迷惑、でしたか?」そう言って
おずおずと顔を上げるから、イッキの口元に笑みが浮かんだ。


「迷惑なわけないじゃない。嬉しいよ」


素直に本心を口にしたところ、彼女はほっと安堵の息を吐き
無意識のうちに袋を持つ手に込めていたらしい力を緩める。
分かりやすく落ち着きを取り戻した様子に
オートロックを前に落ち着かない様子だった彼女を思い返したイッキは
ずっと緊張していたのだろうかと、いじらしく思う。


「あの、イッキさんは今からどちらに?」
「あー…家に食べる物は疎か飲み物もなかったから。
近くのコンビニに行こうと思ってね」
「歩き回って大丈夫なんですか?」
「うん。熱もだいぶ下がったし…それに君の顔を見て、すごく癒された」


イッキとしては本当にそう感じたのだけれど彼女は訝しげな表情を浮かべたまま。
素直になれと言わんばかりの真っ直ぐな眼差しを向けてくる。
その視線に耐え兼ねて目を逸らしたなら、ふと彼女が目の前に立つ気配を感じた。
次の瞬間、彼女は今までの迷いや緊張なんて捨て去り、
ほんの少し背伸びをして、小さな手で額に触れてくる。

「え…」と戸惑いを溢すイッキを余所に
自分の額と比べるように何度か手を行き来させた彼女は
「やっぱり、熱高いです」そう言って、不満を見せた。


「君の手が冷たいんじゃない?」
「そんなことないです。とにかく、部屋に戻ってください」


ずっと開きっぱなしだったガラス扉の奥へ身体を押される。
彼女はどうするのだろうと視線を向ければ
一緒にエントランスホールまで入ってくるから
部屋まで来る気なのかと、ギョッとしてしまった。

こちらの動揺に構わず、エレベーターのボタンを押した彼女に対し
男の部屋に来るということがどういうことか分かっているのか問いたくなったが
彼女が純粋に心配してくれているだけだと知りすぎていたイッキは
落ち着かない鼓動を静めようと必死になる。

彼女を警戒させてしまうことを避けたいのは勿論。
折角、お見舞いに来てくれた彼女を
易々と逃がすようなことはしたくなかったのだ。

いつの間にか最上階まで上がってしまっていたエレベーターは
それなりの時間を掛けて1階へと下りてくる。
邪な考えを早々に捨て、階数表記に注意を向けていたイッキは
心の中で重ねていたカウントダウンの通り到着したエレベーターに
至極当然に乗り込もうと歩き出した。
しかし、次の瞬間に足元が沈むような感覚を受けてふらりとよろめいてしまう。

何が起こったのかよく分からないイッキに対し、
彼女は反射的にといった様子ではありながら
崩れ落ちそうになった身体を支えようとしてくれる。
「やっぱり、無理してるんじゃ…」と呆れた声がすぐ耳元で聞こえる。
小さな身体で必死に支えようとしてくれる優しさを含め、
何だかくすぐったい。


「ごめん…ちょっと、ふらついただけだよ」


もう大丈夫だとして1人で歩き出そうとするも
彼女はその言葉を信じられないとばかりにイッキの腕を強く掴んで支えてくれる。

何もかも見透かしたような瞳に浮かされたみたいに
強がることができなくなってしまったイッキは
更に体温が上がるのを感じながら微睡んだ。




「っ、ん…」


一度途切れた意識が再び鮮明になっていく中、
薄ら瞼を上げると柔らな日差しで見慣れた自分の部屋が白飛びして見えた。
窓に切り取られた景色の中に見える日はだいぶ傾いているようだ。

額に伝わるひんやりと冷たい何かに手を添えながら
怠い身体に代わり、視線だけを動かして部屋を見渡せば
テーブルの上に広げられた風邪薬や冷感シート、体温計が目に付く。
中にはゼリーや缶詰、スポーツドリンクなどもあって。
彼女が持っていた袋に入っていたものかと納得した瞬間、
イッキは大慌てで身体を起こした。

意識を失う前の記憶があまりに朧げで
彼女がお見舞いに来てくれたのは夢だったようにも思える。
しかし、今こうして彼女が持ってきたものが自分の部屋にあって
額にはひんやりとした冷感シートの感覚もある。

よくよく思い返してみれば、彼女に連れられ部屋に戻った自分は
言われるがままベッドへ横になり、体温を計っている間に眠りに落ちた気がする。
ピピピッと体温計の音がしてすぐ聞こえてきた
「やっぱり、無理してたんじゃないですか」という呆れる声も、きっと現実。


格好悪い姿を見せてしまったことを落ち込みながら
彼女はもう帰ってしまったのだろうかと部屋を見渡したところで
ふとキッチンの中に彼女の後ろ姿を見つけた。
火に掛けた鍋と睨めっこしているらしく
彼女の向こうにはふんわりと柔らかな湯気も見える。

目が覚めたらキッチンに立つ彼女がいるなんて
まるで、同棲生活の朝みたいな光景だと心が弾む。
例えそれが偽物染みていたとしてももう少し幸せな空気に浸っていたくて
イッキはその後ろ姿に声を掛けることはしなかった。


「あっ…イッキさん、目が覚めたんですね」


どれくらい見つめていただろうか。
漸くイッキが起きたことに気付いた彼女はほんの一瞬、嬉しそうに笑ってから
「キッチン、お借りしてます」と、少しの気まずさを見せる。

こちらとしては毎日でもキッチンを使ってもらいたいと思っているのに
申し訳なさそうにしている彼女に伝わることはなく。
そのことを寂しく思いながらもイッキは相応の言葉を返すだけに留めた。


「いい匂いだね」
「あ、はい。お粥なんですけど…食欲はありますか?」
「うん。食べたい」


その答えに安堵を溢した彼女はすぐに準備するとして、
鍋へと注意を戻してしまったが、鼻歌交じりの彼女を見ていると
この幸せがいつまでも続けばいいのにと願わずにはいられない。

そんな穏やかな気持ちを包み込むように
ふんわりと優しい匂いがキッチンから漂ってくる。
彼女がコンロの火を消したのを見計らい
待ってましたとばかりにベッドから出ようとしたのだが、
まだ少し怠い身体をのそのそと動かしたところで
キッチンから出てきた彼女に制止を掛けられてしまった。

「え…」と戸惑いを溢すイッキを余所に
彼女は持ってきた鍋をサイドテーブルに置いて
まるで自分が食べようとするかのようにレンゲを手に鍋の中を覗き込んだ。
そしてそのまま、レンゲで熱々の粥を掬うと柔らかな湯気に息を吹き掛ける。
ふぅっと揺れる湯気にイッキの喉がゴクリと鳴った。


「はい。どうぞ」
「え、と…食べさせてくれるの?」
「看病のつもり、だったんですけど…あの、余計なお世話でしたか?」


看病というのはこういうものではないのかと
彼女は恥じることもなく、ただ不思議そうにしている。
初めての看病で勝手が分からず。マニュアル通りに行っているのだろうか。

頭の中にある本をパラパラと捲って
自分は何か間違えたのだろうかと確認する彼女に対し
イッキはふっと口元を緩めると彼女の手を引き、レンゲに口を付けた。


「うん。美味しい」


彼女のような、温かくて優しい味。
飲み込むことを惜しく思いながら味わっているうちに
それはじんわりと口の中で溶けてしまう。

「食べられそうですか?」という確認に頷けば
彼女は喜びと安堵を滲ませて、再びレンゲで粥を掬い、
今度はもっと近くに差し出してきたから、イッキは素直に口を開けた。


「食欲があるみたいで良かったです。
実はこのお粥はシンさんが作って持たせてくれたもので
皆さん、イッキさんを心配してましたよ」
「え…これ、君が作ったんじゃないの?」
「はい。折角だからシンさんも一緒にとお誘いしたんですけど
お見舞いにはカノジョが行くべきだろう
そのほうがイッキさんも喜ぶはずだって言われて…」


彼女の話を聞いて、思わずがっくりと肩を落としてしまった。
鍋の中身は既に半分以上なくなっており、それが何だか恨めしい。
勝手だと分かっていながらも1人落胆して溜息を吐けば
彼女は途端に心配の色を見せ、体調を気遣ってくれる。

それは、カノジョとしてマニュアル通りの振る舞いなのだろうかと
捻くれた自分がマイナスな方向を指差す。

3ヶ月という期限付きの偽りに近い恋人関係とはいえ、真面目なこの子は
カノジョだからそれらしいことをしなければと気負ったのかもしれない。
そうだとしたら、そのことに気付かず1人浮かれていた自分が情けない。


「あの、イッキさん?」
「ほんと、僕は君に甘えてばかりだね…迷惑かけて、ごめんね。
今の僕には、君にここまでしてもらう資格なんてないのに…」
「…資格なんて言わないでください。私はただイッキさんが心配で。
イッキさんのためにしたいと思ったことをしているだけですから」
「…」
「それに、資格がないと思ったのは私のほうです。
ここに来るまでずっと、私なんかがお見舞いに行っていいのか不安で。
何度も止めようと思ったけど、やっぱり心配でたまらなかったんです。
だから、イッキさんが私を受け入れて、頼ってくださったことも
私がしたことに対して喜んでくださったことも、嬉しかった」


だから、謝らないでほしい。もっと甘えてほしいと話す彼女に
『そんなことを言ったら僕に付け込まれるよ?』なんて言いそうになったが
彼女を相手に虚勢を張るのは止めようと思い留まる。

それに、どうやら互いに理屈を並べ立てる節があるらしいから。
深く考えることを止めて、気持ちを素直に伝えていたなら
今日のように波長が合う日がくる。そんな気がした。







End




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