『あら松川君。学校、来てたのね』
彼の顔を見て、どこかほっとしたような安堵感がした。
先日、部活を引退したから、ここに来ることはもうないと思っていたから。
ただこの時の安堵感は、自分が彼にとって、ただのテーピングを巻くだけの存在ではなかったというとが分かり、嬉しかったという、ただそれだけだったと思う。
『バレー、引退したんだよね?長い間お疲れ様でした』
『ありがとうございます』
いつも通り素っ気なくて無愛想。だけど少し照れたのか、頬を指でかく仕草が可愛くて、ちょっとだけからかってやりたくなった。
『今までずっとバレーばかりだったんでしょ?練習なくなったら、毎日遊ぶ時間ができたんじゃない?』
『まぁ。でも採用試験来月だし、遊ぶ余裕はないですね』
『お勉強も大事だけど、高校生なんだから少しは遊んでおかないと!親しい女子とか誘って花火とか行ってきなよ』
『俺から誘っていいんでしょうか。付き合ってないようなコに』
『付き合ってないからこそ、男子たるもの積極的にいかなきゃ。そのコが鈍感なら尚更はっきり言わなきゃね!』
いじめてやろうと思って仕掛けたのに、いつの間にか恋愛語るめんどくさいおばちゃんになってる。
いかんいかん、話を戻さねば。
口許に手を当てて考え込むようにソファに座り込んだ、悩める少年松川君に問いただす。
『んで、松川君。今日はどうしたの?』
あぁ、そうでした。と思い出したように顔を上げた松川君。おもむろに白×ミントカラーの爽やかなジャージの上着を脱いで、Tシャツ姿になった。
『いつもテーピングお願いしてた肩、やっぱり調子悪くて』
『一年生で脱臼したところね。脱臼はクセになりやすいから……今も痛む?』
『わりと』
『練習もうしてないんだったら、テーピングより湿布にしとこうか』
『お願いします』
目の前には紺色のTシャツを脱いだ松川君の裸の上半身。毎度目にする度、思うことなのだけれど、無駄な肉が一切なく、見惚れるくらい綺麗に筋肉が付いていて、思わず頬擦りしたくなる衝動に駆られる……なんて、背中向けて無防備晒してる彼には死んでも言えない。
高校生なのに、こんなにも完璧な体を持ってるだなんて……罪だわ。
などと、変態紛いの思考を鉄面皮で隠し、無表情で湿布を貼る。
『失礼するね。ここでいい?』
『はい』
一応、男と女なので、触れることに対して断りを入れる。
そして貼る位置を手のひらで直に当て確認した後、大きめのを1枚貼った。
なのに、終っても彼はそのまま動かない。
『終わったよ?もっと貼る?』
『ちり先生。俺、ちょっと考えてることがあって』
『どうしたの?』
『……俺、』
少しの沈黙の後、吟味した言葉を紡ぐようにゆっくり話し始めた。
『消防受けるって言ってたじゃないですか?でも俺、肩がほんとよくなくて。採用の体力テストをクリアして、万が一消防士になれたとしても、体が資本なのにやってけるのかなって』
『……松川君』
こんな弱気な彼は初めて見た。どう声を掛けたら良いのか分からず、リップを塗っただけの薄い唇を噛んだ。
あの松川君が自分の悩みを打ち明けるだなんて、そうないはずだし。
『担任の先生と親御さんには、そんなお話ししてる?』
『ちり先生にしか、話してないです』
首を横に振って、小さな声で返事をする彼。
どうしよう……
どうすれば元の松川君に戻ってくれるのだろうか。
彼がここまで言うのだから、余程痛んでいるに違いない。まずはそこをクリアしなくちゃ。そのためには肩のケアとメンタルのサポートが必要よね。
『私も協力するから!せっかく、今日までそのための予備校にも通って、勉強もしてきたんだし、できることなら諦めないで欲しい。肩の方は、手術が必要な程ではなさそうだから、私も今よりケアできる方法増やすように勉強するから。あと私でよければ、いつでも話し相手になるし、して欲しいことがあれば何でも言って』
『どうして“ただの生徒”の俺にそこまで……』
『どうして、かな?わかんないけど、私の無責任な一言で松川君の進路が“消防士”になっちゃったんだとしたら……ってことに負い目を感じてるのかもしれない。松川君、バレーで有名な大学から声かかってたんでしょ?そんな他のすごい可能性があったかもしれないのに……』
実際に、バレー向きの体躯と運動能力を持つ彼には、数校の大学からスポーツ推薦の声が掛かっていた。
それらを全て蹴って、公務員試験に望んでいたのだった。
『……ごめんね』
『なんで先生が謝ってるんですか』
目の縁から涙が滲み出てきて、湿布が貼られた痛々しくも逞しい体がぼやけて霞んでゆく。
『俺が決めたことです、ちり先生は悪くも何ともないですよ』
だから泣かないで、と慰めるような優しい彼の声色が心に染み入る。その大きな背中にすがり付きたい気持ちと、大人のクセに泣いてるのがバレて、恥ずかしいやら情けないやらの強がりな気持ちがせめぎ合う。
『泣いてないんだから』
『はいはい』
『もうっ、目のやり場に困るから、早く服着なさいってば』
年甲斐にもなく取り乱す教師の様が面白いのか、肩を小刻みに震わせ小さく笑う彼。
言い訳がましいことだけど、こんな風に私が子供のように当たってしまったのにも理由が無いわけではない。物心ついて以来、親の前ですら泣いたりしたことなんてないのだ。数少ない歴代の“彼氏”の前でも同じことで。要するに“泣き方”を知らないと言うと簡潔なのかもしれない。
そんなことを知らない松川君は素早くTシャツを着ると、こちらにくるりと向き直った。おかげで、まだ火照りの覚めない顔を見られてしまい、動揺した。
『な…何?』
『俺……柄じゃないけど、かなり精神的にも参ってました。でもここに来て先生の声聞けて元気でました。やっぱり、やれるところまで頑張ってみます。ありがとうございました』
『ほんと応援してるから。頑張ってね!』
贖罪の涙が、嬉し涙に変わりそうだ。
教師として生徒を導けるなんて、これ程嬉しいものはない。
松川君の夢を真っ直ぐに見据え、澄んだ純粋な眼に微笑みかけた。
『それでちり先生。早速だけど、ひとつお願いがあります』
『何でも言って!』
元々、頼られるのは好き。
それに頑張るこのコには、自分にできることならなんでもしてあげたい。
『保健の先生になって、学校の中で生徒の安らげる場所になってあげたいの』と、友達に豪語しながら酒を煽り、落ちては受けてを繰り返していた就活の日々の願いがやっと成就したような、そんな幸福感で満たされてゆく。
『……じゃあ、俺とセックスしてください』
『うん…、は──?』
想定外過ぎて、
私の世界だけ、時が止まったようにフリーズした。