▼ 10.女心と秋の空
「うわぁ…!」
「どうだい!!竹寿司お得意のチラシ寿司だ!!」
「お嬢ちゃんの歓迎といこうじゃねぇか!」
山本がちょっと早い時間に帰ろうと言ったのはこの事だった。赤、黄色、緑、白、桃色…。色とりどりの、綺麗な綺麗な色だ。実家でも食べた事がある。だけど、厳粛な中で摂る食事ほど…息が詰まるものはない。それも親類一同の席で行うものだから、当主として座したあたしに。美味しいと言いながら食すことは許されなかった。誰かと話をしながら、笑顔を浮かべながら。こんな風に、食べた事なかった。店内のカウンターに山本と並んで座って、剛さんが向かい側。白い歯で笑って見せた。山本と同じ顔。
「いっぱい食えよ!」
よそわれたお椀を受け取って、口にしたら。暖かい2人に囲まれて食べる食事は。…なんて。なんて、幸せなんだろう。零れそうになる涙を必死に殺して。剛さんにはっきりと。もう一度。
「すっっごい、美味しいです!」
「あたりめーよぉ!!」
勝気な笑顔が。頭に置かれる掌の温度が。
「よかったのな」
「うん!」
とても嬉しかったんだ。
「…えりか?」
剛の言葉通り沢山食べて先に風呂に入り、山本が次に入ってから数十分の間に微妙に山本の布団に侵入しているえりかは、アルマジロのように体を丸めていた。この後ゲームでもしようかとコントローラーを出しておいたのだが、ここで起こすのも忍びないと思い、電気を消した。橙色の小さな豆電球がぼんやりと部屋を照らす。その光を頼りにえりかに布団を掛けてやる。山本は右側に侵入を許したまま自分も布団に潜り込んだ。腕に人の体温を感じながら。
「家でなにあったのか知んねーけど…遠慮すんなよ」
鈍感と言われる山本だが、そんなに鈍感じゃない。むしろ空気は読める方だ。大体人の表情を読み取ることは獄寺よりも上手い。だからわかる。なにか。自分のように、自由ある広い世界で生きてきたわけじゃないのだということ。もう1人のもえにしたって。突然現れたのだから。言いようのない複雑なものを抱えているのは、わかるのだ。
「もう友達…違うな、家族じゃねーか」
話しかけたら自分にだけ何故かしどろもどろ。中々視線も合わせてくれないけど。だけど、いつか心を開いてくれたのなら。それって、すんげー嬉しくね?
「ってわけで、こいよ!」
「知らなかった…えっと、野球観戦だよね!!?なにか持ってくものあるの!?応援ってなにしてればいいの!?」
翌日。山本が朝一番に言ってきたのは、今日並盛野球部が秋の大会であるということ。レギュラーである山本は、出場するということ。…畜生おおおおお一日でも早く知っていたら応援の言葉を夜通し考えたのに!!全くの、不意打ちッ!!!
「ちと寒いから上着!俺のでわりぃけど部屋に掛かってるからさ!ツナ達と来いよ!」
「う、うん!わかった、あの。山本!」
なにか、言わないと!ユニフォーム姿で振り向いてくれた彼に、なにか。
「が、…頑張ってくださ、い…ッ失礼しましたあああああ!!!!」
恥ずか死ぬ!!!!!高速で頭を下げて階段を駆け上がった。山本の部屋に逃げ込んで襖を閉めた。ああああああもう。
「…キャラじゃないし、なんなのあたし」
窓から山本が剛さんに背中を叩かれて商店街を駆けていく後姿を小さく見送った。本当に…あたしらしくもない。
「って…なんじゃこりゃあああああなにこの乙女!!きんもち悪っっ」
自分自身の乙女モードに…戦慄。山本は部屋に掛けてる上着を着ていけと言っていた。
「…っあああああああ恐れ多い!!!!!」
悶々すること小一時間。ハンガーにかけられている上着を前に、悩みに悩みまくっていた。
「えりか、寒くないの?」
「全然、むしろ着たほうが罪だと思ったの」
「なにそれ」
そういうもえは普通に沢田君のものと思わしきオレンジ色のパーカーをちゃっかり着ていた。ちくしょう、なんでそんな普通なのもえちゃん。
「風引くよ?あっちとこっちじゃ秋に戻った微妙な時差があるんだし」
「恐れ多かったの」
「なにそれ」
デジャヴな会話をしながらも、観戦していますとも。
「んだよその薄着」
「あ。獄寺」
「深い深い事情があって、着ることを憚りました」
もえとあたしの背後にやってきた獄寺は煙草を咥えながら顔を顰めていた。
「馬鹿くせぇ」
正論だから言い返せないけど。つまりは、嫌味を言いに来ただけかと、あたしは再びグラウンドを向いた。もえが、あ。と声を上げた瞬間、頭にばっさりとなにか落ちてきた。真っ黒なそれから漂う煙草の匂い。それが獄寺が着込んでいた上着だと気づいた時にはもう彼は沢田君の隣に戻っていた。
「え?なにこれ。え?」
「貸してくれたんじゃん」
「え、は、え?」
「山本の上着着るの恥ずかしかったんでしょ?好都合じゃん。有難く着なよほら」
ぐいぐいと腕を通されて前を閉められた。煙草臭くなりそうと思いながらも、獄寺をチラ見したらそっぽ向かれた。なんか、不思議な感覚だ。打席はエースの山本に繋がり、振り切ったバッドは甲高い響きとともに向かいのフェンスに直撃した。
「わーっ!!!!」
「ホームランですー!!!」
ハルちゃんと京子ちゃんが声を上げた。山本は空高くガッツポーズしてダイヤを駆けていった。…やっぱかっこいいな。ちゃんと目を見て言えばよかった。ちょっとだけ後悔だな。
「てめーらしっかりやんねーと暴動起こすぞ!!」
「なにしにきたのー!!?」
「野球などやめてボクシングやらんかー!!」
「それもまちがいー!!!」
秋空の晴天は、元の世界の曇天ではなくて。まるで急に色がついたみたいな。元からここに住んでいたかのように、急激に馴染むのだ。不思議だな。
「山本おつかれ!」
「ホームランすごかったよ」
「ははっサンキュ!」
嗚呼、やばい。こう目の前にしたら怖気づくんだよね…アイドルが目の前に現れて道聞かれるのと同じ心境…アイドル会った事ないけど。なんでもえがそんなに自然体で馴染んでるのか理解できない。それはあたしの頭が堅いからなのだろうか。
「おーいえりか」
「おおおお!!?」
下を向いていた視界に黒いグローブをつけたままの手が左右に揺れた。山本だった。
「大丈夫か?寒ぃのか?」
「あ、いや、違う!大丈夫!」
「あれ。それ俺のじゃねーよな?」
「獄寺が貸してくれた、その、山本の上着大切そうだったから」
「ただの野球ブルゾンだぜ?遠慮すんなよ」
「ご、ごめん」
前髪がくしゃくしゃにされた。あたし犬じゃないんだけどな。
「それにさ、煙草の匂いってなんかお前に似合わねーし」
スン。鼻先を首元に近づけられた。整った顔。汗臭さ。…我が一生に悔いなし。
「…?ちょ!えりか!?なに!その顔なに!!?ってどこ行くの!?」
「ああああああああああ」
あたしに山本免疫がつくのは一体いつなのだろうか。
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