諦めないでいれば、
なにもやる気がでなかった。いつもの自然なままの自分はどこへ吹かれて消えたのか。というよりも古鳥のやつ…。
「お前のせいで俺は二軍に降格だよ…ざまーみろ」
屋上でそんなことをボヤく俺は本当に小さい男だ。
「携帯のアドも変えてさ…、俺がそんなに嫌いかよ」
春が来る。明後日は新入生の入学式だ。そうそう、入学式といえば…俺達が北海道から此処に来てもう1年ってわけだ。
――「…お前だけで行かせるのはなんか忍びない。」
――「心配してくれてるの?」
――「そうじゃない、…だけど、俺も行ってやる」
――「…………へ?」
馬鹿らしい。こんな時期だからか、やたらと#新#の顔思い出す。あの、いつもポーカーフェイスのインテリ腐った顔。なのにゲーマーでさ…。俺達は、もう二つで一つの翼ではなくなった。
「…しっかりしろ俺…こんな落ちぶれるためにきたんじゃねーんだぞ!!」
新しい新部員も来るってのに、畜生。やたら育った身体を丸めて膝に顔が埋まる。視界が制服の指定ズボンの生地で埋もれる。このまま布地の世界へ逃げてしまいたい。
「あー、またコンパクトになってやがる」
顔を上げずともわかる。やっぱりすぐに来てくれるのは倉持だ。
「こんなこったろーとは思ってたけどよ、オラ」
頭にガサリとプラスチックの袋とゴツッとした固いものが降ってきた。観念して顔をあげると目の前に落ちていたのは購買で買ってきてくれたであろう無難なパンとピンク色のパックジュースがロゴもなにもない白いビニール袋から覗いていた。パックジュースはアセロラだった。
「…元気だせや」
倉持はそっぽ向いて壁に寄りかかったまま立って豆乳飲んでた。俺が見上げるのは不思議な気分だった。そういや古鳥は背が俺より少し高かったかな。あいつこそ巨神兵だろう。
「…倉持」
「あ?」
「古鳥は元気にしているかな」
「…さぁなァ、まぁ…のたれ死んではいねぇと思う」
買ってきてくれたパンの袋をベリっと開ける。パンの中身は女子が好きそうなクリームとカスタードたっぷり入ったものだった。太陽の光を浴びてその黄色いカスタードはつやつやと輝きを増した。この生地、こんな丸々としているからなにかと思えば2種類のクリームを抱えていたとは。
「倉持さ、これまるでアレだな、女子に買ってるみたいだな」
「お前ぇの好みが女子臭ぇんだわ!!」
「…二軍に降格した。お前が言った通り目付きのせいかな?」
このまま調子を落とせばもう監督は俺を使ってはくれないかも…。空になったパックジュースの裏を何の気なしに眺める。別に俺目付き悪くないとおもうんだけど。
「オレが言ったのはそーじゃなくてよ…なんつーか…」
「ごめんね。暗いよね。わかる。すごくわかる。」
「自覚してんじゃねーか!」
「…やっぱ俺もう少し頭冷やす必要あるみたい。倉持!飯サンキューな!!」
親友だと、俺は勝手にそう思い込んでいる。この倉持という男。元ヤンだとか聞いたけど全然、むしろ介護士かってくらいお優しいやつで。…気合を入れ直そうと思う。
▼ ▼ ▼
「………はぁ…」
部活の時間が終わった。俺は青心寮っていう球児達が住まう寮に住んでいる。明後日から増える後輩。
「えーと…同室になる奴の名前くらいは覚えとかないとな」
授業で使った荷物を寮に置いてくついでに俺は部屋の前にかけられている名札を見た。俺の読み方が間違ってなけりゃあこれは“ふるや”と読む。
「……………“降谷”?」
ユニフォームの白いズボンに黒いソックス。青道オリジナルのTシャツにスパイク。Sのロゴ字が入ったキャップ。夕食までの少し開いた時間で汚れたユニフォームをカゴに詰める。後で洗濯しなくちゃ。二軍に降格したため、今日は二軍で練習をした。早く、戻らないといけない。
「おい!遥華!!居るか?」
「御幸??」
ドアの向こうから聞こえてきたのは同級生でレギュラーの御幸一也だった。
「今からブルペン来てくんね?」
「え…?」
「まさか投げるのが億劫になったとか言わねぇよな?」
御幸は青道一の実力派正捕手(キャッチャー)だ。そんな御幸が俺にブルペンに入れだなんて、別に珍しい話しではなかった。
「…今行く」
きっちりと靴紐を結んで安っぽいアパートみたいな薄い戸を開ける。顔面偏差値、上級クラス。いわゆるイケメンの御幸はいつものように色の付いたサングラスとメットを被って壁にもたれ掛かっていた。
「よっ」
元気良く片手を上げてくるから俺もゆっくり顔の横まで手をあげた。少しグラウンドから距離のある細道を歩きながら前をずんずん進む御幸の背中を何気なしにガン見する。
「なんでいま俺の球受けるの」
「あー?んー…なんつーか…お前の球ってさ、捕手にとったら…こう、クセになるじ?っつーような球だから、たまに受けてみたくなんのよ」
「…意味わかんないお前」
「言葉にはしがたいってことだ!ま、……青柳もそうだったろうな」
俺のポジション言ってなかったが投手(ピッチャー)だ。最近その才は萎んできてしまっていたが。…だから、古鳥のキャッチャーと俺のピッチャーで“ニ翼”。でも、俺の本気球は多分、きっと古鳥にしか取れないだろうと思う。北海道にいたときも古鳥以外の捕手とやると必ず逸らされた。それか避けられた。でも古鳥だけは俺の暴投も必ずあの黒いミットで掴んでくれた。世話焼かすな、って感じのムスッとした顔で。いつもマウンドでテンパってしまう俺に、正面から目で語りかけてくれた。
“俺のミット見ろ”“そこに捩じ込め”“俺達は二翼だろ”…だからお前がいなくなったら俺は…。
「いいぜ!遥華!本気でこいよ!」
御幸には何回か受けてもらったことがあったにはあった。野球ボールを左に持つ。ボールを持ったまま口を開いた俺に御幸は?を浮かべている。
「俺はお前が受けてくれるのに本気、出してない…前も、今もそうする」
「……あのさ、俺も捕手だからわかってんだよそんなこと」
「わかってたの?」
「嫌でもわかる、そりゃ俺は青柳に比べたらお前の本気球なんて取れる自信は……正直無い」
悔しいけど。そう言って御幸はハハっと笑った。そうか、気付いてたんだ。
「青柳とお前は中学時代からのバッテリーだった上にお前のクセも全て網羅してたし…それに青柳は…すげぇ捕手だ」
「珍しく誉め称えるね」
「1年のときからお前らバッテリー見てたからな、クリス先輩と同じくらい尊敬もしてるし、越えてやりてぇって思ってる…一番に追いつきたい背中だ」
だから。
「だから青柳に追いつくために、お前の本気球取れなきゃ話しになんねぇ。来いよ。俺に重ねて見たっていい。超えてぇんだ」
グッ、ストレート一本を暗示するようにミットを前に突出した。御幸は、きっと俺と同じく古鳥が去ったことを気にしていた。でも古鳥という目標を見失った訳ではない。だから越えたい、だから俺の球を受けたいわけだ。
「……重ねて?ははっ、古鳥の体格はそんなに小さくなかったよ」
俺よりも御幸は身体が小さいから。
「そういう外見じゃなくて…」
ザッ…。足元の砂を馴らすように足で数回撫でる。帽子のつばが上を向く。バッターを牽制するのは癖になっているから居もしないバッターを睨む。…今なら、投げられる。
無意識に出る冷や汗を止められなかった。いつもは温厚で女みたいな顔といじられている遥華が。御幸はこの瞬間まるで野生の狼達に囲まれた時のような、焦燥感を抱いていた。遥華の眼は御幸を捕らえているのに違うものをみていた。すぐにわかった。目の前の男が自分を通して誰を見ているかなんて。
「…っ」
思わず生唾を呑む程に圧倒的な視線。駄目だ、反らすな。ここで目を逸してはいけない。古鳥は絶対に遥華から目を逸したりはしなかったはずだから。古鳥に出来たことを自分も出来なければ越えることなど夢のまた夢だ。ぐっ、足に力を入れて衝撃に備える。モーションに入った右足が上がる。長身な遥華が足をあげればその大きさは更に圧巻だった。こんなの正面から見続けられたバッターは失神してしまうのではないか。捕手である自分でさえもこれはキツイ。腕がしなる。飛んでくるボール。ドクドクとリアルに聞こえてくる心音。気づいた時にはもう――
…ガッシャアアアアアアアン!!!!!!!!!
「…ッ…!!!」
ストレートを指示したはずだったが遥華のボールは御幸の肩に直撃する前に後ろのフェンスに体当りした。そのフェンスにはボールが悲鳴を上げてめり込んでいた。…な、んつー…球だよ…。本気で投げろと言った。それを言い出したのは誰でもない自分自身。心の底ではまだ何処かで遥華を見くびっていたのかもしれない。たいして目立たない筋肉で計測不能なほどの豪速球ができるのか、なんて…それに…。
「…俺はストレートを指示したはずだぞ」
何故逸らした。沸々と怒りに似た感情が沸き上がってきた。
「俺が取れないと確信したからか!?」
「…取れなかっただろ」
「!!」
「投げれると思った…だけど違った、御幸は御幸だ」
「…どういう…」
「…古鳥は、マウンドに立った俺をあんな目で見ないんだ」
「あんな…目?」
「今度ビデオでも撮って見てみるといいよ、すごい顔してた。だから取れないと感じて…外した」
唖然。もう怒る理由さえも見当たらなかった。投手の異変に気付くのは捕手の役目。ただ、今はまったく逆だ。
「…っちくしょー悔しいわ」
「俺も悔しい、御幸に応えられなくてごめん」
「……遥華、最近ブルペンに入らせてもらってない理由って青柳がいないからか?」
「それも一理ある、御幸で俺の球が取れないなら他の捕手も…こう言っちゃ悪いけど取れないだろうし…」
「…じゃあ試合で登板させてもらえねぇのかよ」
「監督がそう言うなら俺はマウンドには上がれない」
1年前から御幸は古鳥と遥華のバッテリーを見ていた。雑誌等の掲載を嫌がる古鳥だったから御幸の影に隠れていたが、その才能は…当時は御幸以上。クリスをも凌駕していた。遥華も持ち前のあのピッチングで二人一緒にすぐに一軍に上りつめた。古鳥の無機質そうに見えて闘魂の炎を燃やしていた瞳。本当に球児なのかと疑いたくなるような美しい顔つき。その異質は遥華とはまた違った意味で異質だった。捕手としてのライバル意識で見ていた御幸はその異質な程綺麗な顔つきにも惹かれていた。捕手としてのライバル意識が。それがいつの間にか純粋な憧れへと変わった。
『かっけぇ…』
いつの日かそんな言葉を呟いたことがある。確か監督の前であのバッテリー達がマウンドで練習していたとき。本気投げの遥華の気迫に圧迫されることなく真っ直ぐに相棒を見つめて。ドパアアアアアッ!!!!!!!!グラウンド中に響いたミット音。あの黒いミットには球がきっちりと収められていた。
『あいつを越えたい』
その時から、あの背中を目標に。…だが、そんなバッテリーも古鳥の突然の転校で解消された今。再びあのミットにボールが収まる音は聞けない。それは遥華のボールを取れる捕手が青道にはいないからだ。必然的にマウンドに立つことは難しくなる。
「…俺は青柳を越えること諦めてねーんだ」
「うん」
「俺が取ってやる…お前のボール」
「…え?」
「あいつみたいにはなれないかもしれない。今はまだ取れねぇけど…でも約束する」
夕食時の静かなグラウンド。御幸は立ち上がって少し離れた所に立つ遥華を見定める。ザワザワと風が砂を巻き上げた。もう一度あの時のミットの音が聞きたい。
「あいつの代わりに俺がお前をマウンドに立たせてやる」
「青柳にこだわり過ぎている傾向にあるな」
2人の先程の練習風景を見ていたのは三年の伊佐敷純と主将になった結城哲也。
「あいつがやめてまだ数日だ、ここまで立ち直っているのはむしろ褒めてやりたい」
「アイツッ…この大変な時期に退部だァ?あ゛ぁ〜ドツキ回したい!!!」
口を限界まで極端に曲げて伊佐敷は眉間に目一杯皺を寄せていた。
「哲、お前キャプテンだろうが!なんか聞いてねーのかよ!」
「………いや、何も」
ブルペンから目を逸らさずに言い切った結城を伊佐敷は若干疑いながら横目で結城の目線を辿った。
「あのピッチングはクセ球以上のクセ球。何度か受けているらしいが今の御幸では上城のボールをストライクで取るのは無理だ」
上手く言葉にできないが遥華の二軍降格を少なからず気に留めているのは事実で。…小湊のあの発言は小湊なりの優しさであったことも充分にわかっている。青柳古鳥という男は重要な選手であったことも。
「御幸に上城の球が取れない限り監督も登板はさせないだろう」
「あのアホかって位の球投げられて取り損ねてみろよ、体に穴開くの確実だぜ」
バックホームへ返す球すら怖いというのにマウンドで投げられたあの球を真正面で取るなど…そんなの、聞こえは悪いが自殺行為に他ならない。だから監督はブルペンでのピッチング練習をさせないし登板もさせない。受けた捕手が万が一怪我でもしてしまえば終わりだからだ。
「ピッチャーとしての練習も試合も出来ずに唯一の相棒もいなくなった。上城にはとてつもない…喪失感とストレスがあるに違いない」
主将として、チームメイトとして結城は結城なりに不器用であれど色々考えていた。
「あいつは青道に必要な投手だ、このままの状態が続けばまずいことになるかもしれない」
わかってんだよ。そう言いたそうに伊佐敷はまた口を尖らせた。
「野手でも良い働きしてんだ、俺みたいに野手になるかもしれねぇ」
「…監督がどう判断するか…」
「もし野手になったら」
「抗議はするつもりだ」
星がグラウンドを緩やかに照らす。青道高校野球に一年の怪物投手とムービング投手が入学してくる一日前の夜の話し。