忘れられないあの子


『ねえ、このミットどう思う?』
『まっ黒くて、かっこいいと思う』
『ははっ!じゃあ、これにする』

小さい頃から無類の野球好きだった。北海道の土地は広いから、いつでもどこでも野球ができた。俺に最初に野球を教えてくれたのは、兄だった。兄は、道内の高校に進学して野球部に所属していた。甲子園出場は当たり前だと言われていた学校だ。真っ黒なキャッチャーミットをはめて駆けて行く後ろ姿。背番号は2。祖父さんとよく兄の応援に行った。太陽が照りつける、暑い暑い日。雲の流れがやけに遅く、熱を放射するグラウンドは陽炎さえ見えた。兄の姿が、灼熱の中に晒されているようにも見えた。…きっと、本当にあそこは地獄だった。9回裏、ノーアウト満塁の絶対的ピンチ。5対5の接戦の場面。兄は、ボールを撮り損ねた。焦っていたのだ、勝利を。ワンバウンドしたボールは兄の手をすり抜けて、転がっていく。ランナーが走る。回る。ホームベースを踏み抜く音。兄の顔から、血の気が引いていく。真っ白な顔で見上げた時にはもう、相手チームがもみくちゃになって、勝利を掲げる姿だけが、そこにはあった。甲子園をかけた、最後の試合。兄の撮り損ねという形で。敗者として、終わりを告げるサイレンが響いた。

『古鳥、これあげる』
『これ兄さんの…』
『僕にはもう、必要ない。古鳥が好きに使ってくれて構わない。』
『でも…』
『ごめん、かっこいいミットなのに。かっこ悪い試合を、最後に見せてしまって』

兄が、押し付けるように俺に託した黒のキャッチャーミット。その時の兄の顔は、今でも思い出せば心臓を抉られる程、悲痛なもので。幼かった俺は、兄の真意も意図も全く理解することが出来なかった。…その試合から程なくして、兄は自ら命を絶った。部屋のクローゼットで首を括って。誰にも気取られることなく、静かに旅立った。棺桶の中で横たわる兄の姿は今でも鮮明に覚えている。というか、実感が湧かなかった。その時も、ずっと。兄の形見であるミットを肩身離さず抱き締めていた。

『…そのグローブ捨てなさい』
『なんで、嫌だ。これは兄さんに貰った物だ。』

母との対立は仕方がなかった。母が兄のことで深く傷ついてることも、だからこそ兄の私物全てを消して、なかったことにしようとしてることも、気付いてた。でも、だからこそ。絶対にこれだけは手放したくなかった。兄が愛した野球。兄が絶望した野球。

『なんで俺を野球に誘うんだ』
『…野球、好きなんだろ?』

そんな同じ瞳をした遥華を、放っておくことが出来なかった。遥華のどこかに兄を投影して、助けた気になっていたかったのかもしれない。その絶望した顔に、野球を、もう一度愛して欲しかった。

『東京の高校に行く…?』
『ああ、友達と一緒に』
『だめよ。やめなさい。野球なんかの為に。そんな所に行くなんて』
『だけど、』
『絶対駄目よ、東京なんて……野球なんて』

母を説得することは、ついに出来なかった。遥華が野球を愛し、再びその瞳に活力が漲った姿を見たらどうしても遥華を手放したくなくて、兄の姿を、失いたくなくて。必死に縋った。遥華の家も上京は反対されたが、俺も一緒に頭を下げ、更に旧友がいるからと、やっと承諾を得た。俺はというと、祖父さんの口添えが大きくて、半ば無理矢理決定した。父とも、祖父さんとも話し合ったのだ。母とは喧嘩別れになってしまった。兄のキャッチャーミットを見つめていると、そのことが蘇る。試合前は特にそうだ。夏の予選が始まる。熱を増し始める太陽。

「古鳥どうしたの、ミット見て」
「……昔のことを、思い出してた」
「昔のこと?」
「うん」

見上げてくる大きな瞳。勝気で強気な力強い色。大空の色。

「俺には兄がいた、今はもういないけど。その兄の形見なんだ、これ。」
「古鳥」
「ん?」
「獲るよ、日本一。そのお兄さんと一緒に、俺の球取ってよね!」

キャッチャーミットを見つめて鳴は、にっと口角を上げた。よろしく!なんてミットに踏ん反り返って挨拶なんてして。本当に眩しい太陽みたいな奴。俺は野球を愛してる。遥華、鳴、哲さん達が大好きだ。それは、絶対に変わらないんだ。だけど俺には甲子園にいく義務がある。今度は俺が兄に、甲子園を見せてやるんだ。俺は欲張りだから、人の話なんて聞きやしない、我儘だから。遥華との事も兄の夢も求める。だから、絶対に負けない。




自分が選ばれるのは、わかっていたと言えば聞こえは悪いが、思っていた。でもそれは、あのスタメンの座を死守してきた者だけが言える台詞だ。ただ俊足なだけじゃない。サードの役職として相応しい動きを見せているから、この夏、選ばれたのだ。慢心しているわけじゃない。だけど、倉持は試合が待ち遠しかった。試合が始まる前の高揚感は、球児のほとんどが持つものなのかもしれない。去年の雪辱を果たし、全国制覇を狙う。なにより三年生の先輩達、特に鉄壁の二遊間とまでいわれたセカンドの小湊亮介と組む最後の夏なのだ。目指すは、全国制覇のみ。食堂を出て何気なくふらふらしていたら名前を呼ばれて振り返った。遥華だ。

「なにしてるんだ?沢村たちといるのかと思ってた」
「別に毎日ってわけじゃねーよ」
「そうだったっけ」

遥華が笑う。ほんの数日前まで自分がこの手で、口で壊してしまっていたもの。確かに御幸の言うことはもっともだ。こいつは、投手。大会が始まるって実感して、ようやく遥華の時期の大切さに気づいた。俺は知らないうちに焦って、本当に遥華の為になるようなことをしてあげられていなかった。なのに、御幸はわかってやってて。それがまた癪に障って、イライラするけれど、もう。こいつをあんなに追いつめるのだけは、絶対にしない。俺が一番わかっていたじゃないか。一緒に居た筈じゃないか。罪悪感がまだある今、ループ式の自己機嫌に陥りそうになる。

「おーい」

手を目の前でブンブン振られて、意識を戻した。眉をハの字に曲げた顔がそこにはあった。至近距離で見れば見るほど綺麗な顔立ちだ。日がな一日外に出ずっぱり。日焼けするはずなのに、それがない。元々陽に焼けづらいとは言っていたけど、顔だけ見たら男じゃないみたいだ。身体はでかいし、力も体格に相まって俺達より強い。なのに。こういうところは、という変なギャップを持ってるコイツ。…俺なんか大事な事忘れてねぇ???この顔に拳を振り下ろした日、俺はとんでもないことをこいつに言わなかったか?

「倉持、俺頑張るからな!!チームの為にも早く変化球を取得して、お前が俺を好きだって言ってくれたみたいに、俺も自分のこと好きになれるように努力する!」
「…は」
「あ、悪い、俺これからブルペンなんだ。じゃあな倉持!…おやすみ!」

…"お前が俺を好きだって言ってくれたみたいに"

…俺がお前をす…ッ!!!!!すッッッ!!!!!!?

「ああああああーっっ!!!!?」

そういえば、勢いに任せて言っちまったっていうのも否定はしない。自分から言っておいて忘れてたのも認める。だけど、これは、こんな形で思い出すとは。倉持は頭を抱えてしゃがみ込んだ。顔だけじゃない。首から上がかなり熱い。耳まで火照ってる。その場の勢いとは恐ろしいもので感情に任せて"一応自分の好きな相手"を抱きしめて挙げ句の果てに告白まがいなことまで終えている今、むしろ倉持に恐れる事などなにもないように思えるが、錯覚である。しかも遥華は倉持の気持ちには気づいていない。…そもそも。俺が、誰が好き…だって?ハッとして顔を上げた。

俺は上城を気に入っている。野球部に入ってから、特に仲良くしていきたいと思えたのは上城だ。ずっと一緒にいても飽きないし、見てて放っとけない。だけど、これは…。どっちの、"好き"なんだ?"一応自分の好きな相手"って…なに。

「倉持、なにしてんだ?」

疑問を叩き出した直後、声を掛けられた本日二度目。ラフなシャツとジャージを着た御幸がこっちを見て突っ立っていた。手にはキャッチャーミットが既にはめ込まれている。

「つーかさ、遥華見てねぇ?これから練習の予定だったんだけど」
「いや…さっき行ったぞブルペンに」
「まじか、行き違いか。わかった、サンキューな」
「おい御幸」
「ん?」
「…お前は上城のこと、どう思ってんの」

聞いた瞬間後悔した。こんな事聞いた自分にも、背を向けたまま固まったかのように動かない御幸にも。全てに後悔した。寮の各部屋から洩れる笑い声も、沢村だと思われる馬鹿でかい声も。静寂を静寂にさせないような音は確かに存在していたのに、御幸と倉持の間だけは、耳鳴りがする程の静寂がどっしりと横たわっていた。

「…それ聞いて、お前どうすんの?」
「ど、どうすんのって…」
「俺前にも言ったけど。あいつの集中奪う事だけは、マジでしないでくれ」
「それはわかってんだよ!俺が聞いてんのはそういうことじゃ…」

御幸が遥華を友人だと思っているのなら、ただ一言。そう答えればいい。チームメイトだと、左翼を支えるためだと。そう、倉持に言えばいい。

「…俺は、最初青柳がいなくなって、マウンドから離れた遥華をただ、もう一度連れ戻して立たせてやりたかった。…憧れてたから、あいつの本気球取れれば…青柳を、越せると思ってた」

こちらを振り向くんでも、背を向けるわけでもなく、横を向いて壁に背を預けた。御幸の横顔は見えるが、眼鏡が反射して表情までは読み取る事ができない。

「だけど、それは少しずつ変わってきた。青柳を越すためじゃなくて、一緒の目標を進んでいくような戦友みたいな存在になって、そして…今は、遥華の邪魔を誰にもさせたくないって思ってる」
「…」
「あいつを心底支えたいと思ってる」

堂々たる、宣言のようにも思えた。淡い恋でも、苦い思いでもない。御幸のすっきりした回答は、庇護欲に満ちているようなものだった。あの日、御幸がムキになって突っかかってきたあれはこの気持ちの延長線上にあったのではないか?何故、気づかなかったのか。コンビとして息が合ってきてるとは思ってた。人を観察することは得意だったのに。

「でも、それはチームの為じゃない…個人的にあいつ自身を、俺だったら支えてやれると思う」
「…は?」
「…なんてな!じゃあ遥華が待ってっから行くわ」

ニコッ。歯をむき出して御幸は片手をあげた。いつもの顔だった。あのいけ好かない胡散臭い笑顔。…しかし最後のそれは、御幸の本音に聞こえた気がした。




≪−これより第89回全国高校野球選手権、東西東京大会開催いたします≫

東西合わせて260校…わずか3週間足らずの間に、選ばれる代表校はたった2校。

「す…すげぇ人だな」
「開会式は西も東も全部集合するからね。西地区は準決勝から神宮で戦える。もう一度ここに戻ってくる事がまずは目標だよね」
「って、てめっ、何やってんだよ!狭いんだからちゃんと立てよ!」
「なんか…人に酔った」
「どんだけスタミナねぇんだよ!!」

沢村たちの声が後ろから聞こえてくる。260校の圧倒感はとてもじゃないが、すごい。暑い中、選手達が一つの場所にぎゅうぎゅうに並んでいるのだ。あちこちから微かに不満の声も聞こえてくる。頭一つ飛び出ている遥華は真正面がよく見えた。もしかしたら、と期待を込めて周りを見渡して、自分と同じように頭一つ出ている選手を探した。

「上城、キョロキョロすんなよ」
「あ、ごめん」

倉持が小声で注意を飛ばした。古鳥を探そうと思ったが、タイミングが悪いらしい。大人しくただ前を向いた。開会式が終了し、各校が帰りのバスを待っていた。神宮球場の出入り口はこれから戦うことになる球児たちで溢れている。ワイワイガヤガヤと騒がしい。

「すいません、トイレ行って来ていいですか?」
「あまり遅くなるなよ」
「はい」

ぺこっと小さく頭を下げて球場の中に入っていった。やはりその顔立ちは目立つのか、遥華の顔を二度見する他校の選手がにわかに騒いでいるのが微かに聞こえる。

「ん?」

その直後、伊佐敷が顔を上げる。それにつられて結城と増子が伊佐敷の目線を辿る。向こうも気づいたのだろう先頭を歩くのは稲実の主将、原田と関東No.1サウスポーと呼び声高い、成宮鳴だった。

「ああ!!!た…丹波さんがデッドボールのショックでハゲた」
「隠れるな…。あの時は冷や汗が出たが、思ったより大事に至らなかったようだな」
「ったりめーだ!丹波の顔面は鉄よりも硬ぇ!!硬球なんかに負けるかよ!!」
「げんこつせんべい並だ」
「いやそれ割れるから」
「ウチと当たるまで楽しみに待ってろコノヤロー!」
「お前ら元気一杯だな…」

3年生のいつも通りの態度、それが逆に頼もしく思える。

「あ〜!!稲実の白アタマ!!またウチの情報を探りにきたのか!」
「喋ったのはお前だろ…」
「つーか、あれ?お前ベンチ入りメンバーだったの?」
「そのとーり!!」
「お前はもう喋んな」
「お前ら、ウチと当たるまでコケんなよ!」
「それはこっちのセリフだ!!」
「決勝でな」

結城と原田はそう、顔を見合わせた。一言だけであったが、その一言には言葉では伝わらない互いの信念が垣間見える。結城の瞳は、それだけではない色も灯しながら稲実の選手が通り過ぎるのを見ていた。その最後尾。

「また会ったな。先輩に噛み付くタイプの後輩くん」
「!!!」

ぐったりしている降谷を支えている肩を、ポンと叩かれる。顔を上げた沢村は思わずぐっと息を呑んだ。高い身長。球児かと疑いたくなるような秀麗な顔つき。眼鏡から覗く瞳は吊り上っていて、形の良い口元はほんの少し上がり、好戦的な目差しで沢村を見下ろしていた。

「楽しみにしている。青道と当たるのを」

男はさらりと手を離して去っていく。その瞬間、ぐったりしていたはずの降谷が、がばりと頭を上げた。

「うおっ!吃驚させんな降谷ァ!!」
「…いまの…」
「すいません!今戻りました!…どうかしたんですか?」

丁度、稲実が見えなくなったタイミングで遥華がトイレから帰ってきた。静かなのが気になったのだろう。小首を傾げた。

「なにもない。そろそろ行くぞ」

結城の一言で、大方察している小湊と解っている伊佐敷がフォローしながら遥華の意識を逸らさせた。あの瞬間に遥華がトイレに立ったのは、偶然にしろ好都合中の好都合だった。先頭を歩く結城の背中を見やりながら、伊佐敷は、もう話してしまう方がいいのではないかと考えるようになっていた。甲子園を懸けた大会が開幕した今。稲実の試合を見る場面は、必ずどこかで出てくる。青道と稲実は、お互い当たりたいと思っているのだから。古鳥は優秀な捕手だ。原田が正捕手の現在はその活躍はどうなっているのかは分からないが、ベンチでその才能を眠らせておく訳がない。そうなると、自ずと。遥華が古鳥に気がつく日が近いうち必ず起こる。その時が、その時だった場合…どうする?青道に投手は5人存在し、継投式になっている。しかし、いくら他に4人いるからと言っても、遥華もその投手の1人だ。もし…大事な場面で、古鳥の事でのショックが抜け切らずにマウンドに上がることになってしまったら…?4人の投手が万全な状態でなかったら?考えたくもないが、クリス、丹波と続いている今、そう考えてしまうのはむしろ当然である。万が一、を考える事はとても大切な事に違いはない。だからこそ、今のうちに遥華に全てを打ち明けるべきではないのか。今が、その最後のチャンスなのではないのか。そう思いながら結城を見ても表情は変わることはなく、ただ前を向いていた。

…哲、このまま事実を隠し続ける事が、本当に遥華の為に。チームの為になるのか…?

この一言を、素直に口から出してしまいたいが、それはタブーだ。結城の気持ちを考えれば…できない。古鳥の事で一番ショックを受けたのは結城だ。可愛がってきた後輩を…いいや、…寧ろ好意すら抱いていた相手が目の前から、急にいなくなったのだ。理由を自分だけ教えられたとしても、きっと結城は知りたくなかっただろう。泣きも、怒りもしなかった。結城は自己表現が少し下手だ。個性的で天然な性格をしていると思う。でも口下手で多分、古鳥に対して抱いた気持ちすら気づいていなかっただろう。だからこそ、歯痒いのだ。訳のわからない心の痛みに悩まされ続けている親友に。口には出さなくても、古鳥の話をするとき、必ずいつも前を見据えている目が伏せられる。端々で感じている。結城が静かに、誰にも気づかれることもなく、背負っている古鳥への気持ちを。

「遥華!帰ったら変化球の練習だからな」
「わかった。ありがとう御幸」

…1年前。1年前は、遥華の隣にはいつも古鳥がいた。今のように練習内容を話して。その光景が、御幸に変換されつつあることに、ちょっとした寂しさを感じる。最近、仲の良い御幸と遥華。いつのまにか、遥華の捕手は御幸になりつつある。そういえば御幸はあの本気球を取ると躍起になっていたはず。古鳥を超えるのだと。揃いも揃って、古鳥の影を追うその姿達は真剣で。…止めずらいのだ。いや、寧ろ止めてはいけないのかもしれない。それが原動力になっているのなら、それを害する言葉を吐いてはいけない。



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