93.胸が苦しいのは君を想うから
「…お前は、なんでいつもそこにいるの?」
「お目付役って言えば、怒るか?」
「目を付けられることをした覚えはない」
そうだな、と。シカマルは物悲しげに笑んだ。シモクの第一関節には擦り傷が多数あり、綱手の話を聞いた後、これは人を傷つけたことから生まれたものだ。一度だって。兄が人に手をあげたことはない。任務だって、イヅルが呆れるほど敵に情けをかけていた人が。自分から進んで人を嬲り、笑い、命を軽んずるなんて…。そして、そのことへの罪意識は、全くない。
「兄貴さ、俺のことわかるか?」
「藪から棒になんだ」
「覚えてるか?」
「俺の弟だ。そして奈良家16代目で、中忍」
違う。そういうことを聞いているのではない。
「兄貴は俺をどう思ってる」
以前のシモクなら、笑顔で大好きだと答えるだろう。なにがあっても、なにをされても。必ずシカマルのところへ帰ってきた。シモクは自分の胸に指先を当てた。嗚呼、…振動する。震えている。シカマルはいつもそうだ。帰ってきた俺を見ても、悲しそうな顔しか見せない。帰ってきたのに。ここにいるのに。シカマルは俺の方を向かない。俺のなにが違う?俺のなにが悪い?
「兄貴は、どこにいるんだ…?」
いるよ。
「返してくれねぇかな…」
シカマル。俺は俺なんだ。
「兄貴を…奈良シモクを、」
俺を見て。
「返してくれねぇかな…」
…なんでお前まで俺を突き放す。
「なんで……」
痛い。
「なぜ…俺を責める…?俺は帰ってきたのに!周りが望む俺になったのに!なのに、俺は要らない!!?」
要らない?
「兄貴!落ち着い…っ」
お前すら、俺を捨てる?
「呼ぶな!俺を呼ぶな!!」
嗚呼、突き放されるのなら。
「俺はお前の"兄貴"じゃない!!」
俺を、違う俺を求めるのなら。
「あの時…っ!」
もう、お前の"兄貴"でさえ、いさせてもらえないのなら。こんなことになるのなら…いっそ。
「あの時、死ねば良かった…!!!!!」
ダンゾウ様のカリキュラムを受けた時。
死ねば良かった。生きて生きて俺がどんなに奪われていこうと。どんなに屈辱的でも。どんなに苦しくても生きて。大切なものが、約束が俺にはあったから。シカマルに言われたから。帰ってきてくれるなら、それでいい、と。でも。違うんだね。色んなものを奪われて、穴だらけで空っぽな俺は、要らないんだね。俺はね。どんなに辛いことがあっても。お前を思い出すだけで頑張れたよ。どんなことにも耐えられたよ。お前が、俺を"兄貴"と呼んでくれるから。
「俺を俺として見てくれないなら、もう俺を…"兄貴"と呼ばないで」
これ以上、なにが残るのだろう。思い出も、感情も、大切な家族すら俺から全てを奪って。なのに、泣きたいほど、俺は里を愛している。たとえ自分という存在が里によって壊されたとしても。俺は里を愛してる。
「…違う…兄、」
俺を呼んだところで。お前の望む兄に、なってあげられない。壊れたんだ。人を殴ってもなにも感じなくて。むしろ死ねばいいと思った。こんな程度で俺に向かってきたあいつらが滑稽で。笑いすら込み上げたんだ。悲鳴の賛美歌が気持ちよかった。血の雨に高揚した。そんな俺のことを、シカマル。お前は兄貴とは呼ばないだろう。捨てられるのは、大嫌い。だけど、慣れてる。残されるのも嫌い。だけど、慣れてる。捨てられる前に、捨てたい。信じても裏切られる。祈っても届かない。望んでも掴めない。苦しくて苦しくて。こんな人生を送るつもりじゃなかったのに。どうにしても辛いのなら、死ねば良かった。
「早まんな兄貴!!!」
「もう死なせてくれ…!!」
死ぬ機会はいくらでもあった。
「五代目様っ!!!シズネさん!!」
お前に必要とされない俺なんて。そんな俺なんて、こっちから願い下げだ。返して。シカマルに少しでも愛されていた俺を。返して。俺の、周りから散々言われた情けない甘さを。どうか、返して下さい。
「…あまり、奴を混乱させる発言はするな」
綱手達が部屋に駆け込んだ時には、シモクとシカマルが苦無を取り合っているところだった。3人がかりで押さえ込み、首に手刀を加えて気絶させるまでの間、シモクは泣いていた。体じゃなく、心が泣いていた。
「…五代目様…兄貴は、死にたいんですか…?」
もう、死なせてほしい。それは混乱から生まれた一つの真実ではないか?硬く自分の心を閉ざすシモクが抱えていた、シモクでさえ気づかなかった本音のように思えて。今まで歩いてきた環境で、そう思わない方が不自然な程、シモクの道は血だらけだ。
「兄貴は、」
言葉が、思ったように続かなかった。
「シカマル?」
「…チョウジ」
今日は帰れと、お目付役にして悪かったと、綱手はシカマルに帰宅を指示した。シモクは別の医療忍者が交代制で見張ることになった。テンゾウの部隊の隊長は、任務復帰未定としてイヅルに下げ渡された。
「最近、この時間にここを通ってるってアスマ先生に聞いたんだ」
チョウジの温和で間延びした声色が久し振りに聞いたように感じた。
「シモクは元気そう?」
チョウジ。お前に、話すことがたくさんあるんだ。
「っ…、くそ、…」
「シカマル?」
でも、なにをどこから話したらいいのか。それすら分からないんだ。
「っう…っ!」
虫の音が響く路地で、シカマルは蹲って泣いた。チョウジはなにも言わないで、視線を空へ向けた。シカマルはプライドが高い。見られていたら、全てを吐き出すことはないだろう。だからこそ、今はなにも言わずに僕は上だけ向いてるよ。すべて出し切ったら、シカマルはきっと内容を纏めてくる。…纏まらなくてもいい。大切な親友だ。そしてその先にいるのは、大切な猪鹿蝶の兄だ。一人で溜め込んだシカマル。そろそろ、僕たちにも手伝わせてくれる?たとえシモクから拒絶されても。僕も、いのも、今度こそ逃げないから。