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03

走ってきたからじゃない。止まらない動悸に、どんどん追い立てられる。泣きながら戻ってきたら太った婦人に驚かれたが吐き捨てるように合言葉を言えばすぐに開けてくれた。

談話室を横切り、自室へと逃げ込んだ。


「First name、おかえ……First name?」


胸元を握り締めながら蹲った私にレイが異変を感じたのか珍しく表情を崩しながら駆け寄ってくる。


「どうした?」


労わるように、そっと背に添えられた手が冷たい身体を解してくれる。呼吸を乱しながら喋れずにいる私の言葉を待つように、ゆっくりゆっくりと背中を摩る。


「れ、レイ」

「ここにいる」

「レイ!ど、どうしよう!どうしよう!」


どうしよう。どうもできないことなんか百も承知だが、私の口から次いで出てくるのは、どうしよう。

どうしたら良いのか分からなかった。何をどうしたいのかも分からなかった。ただ、胸に広がる暗雲が痒くて痒くて、いっそ心臓を抉り出して欲しかった。


「レイ、レイ、私の……私の心臓を取って」

「First name?」

「お、お願い、何これ、やぁ!気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!」


破るようにワイシャツを開き胸を掻き毟る。微かに走る細い痛みが心地良い。


「First name!」

「……ッ」


レイが私の行為を阻むように手首を掴んだ。言葉も無くレイが私を見つめる表情は悲しげに歪んでいた。某然とレイを見つめていれば頬に泪が幾つもの筋を残す。


「落ち着け、何があった?」

「あっ、あ、き、嫌いにならない?」


口から溢れ出す不安を止められない。


「気持ち悪いって思わない?」

「First name?」

「私のこと、捨てない?」

「……」

「どうしよう、セ、セブルスさんに舐められた」


言って、何そんなことで泣いてんだとか。馬鹿馬鹿しいとか、恥ずかしいとか、情けないとか、そんこと思い浮かんだけど、すぐに消えた。だって、気持ち悪いの方が強かったから。


「泪、舐められた。何度も何度も舐められて、舌が、く、唇に触れそうになって、逃げてきちゃった……ッ」


本当、言ってて情けないけど、声を上げて子供みたいに泣いてしまった。だって、だって。

レイがどんな顔をしてるのか見れなくて俯いて泣き続けていれば、不意に掴まれていた手首が涼しくなった。


「レイ?」


ようやくまともに見た彼の目は氷のように研ぎ澄まされていた。


「ここにいろ」


すっと、音も無く立ち上がった彼は背を向けた。その背中には真っ黒な翼を生やして。


「やだ……ッ、どこ行くの?」

「すぐ戻る」


そう言った背中は、今にも人を殺しに行きそうな黒を背負っていた。


「やだ、行かないで、行かないで!」


お願い、お願い、傍にいてよ。


「レイ、お願い、行かないで……」


縋るように言えば、彼は翼を大きく羽ばたかせ、風を巻き起こした。家具は倒れ、窓硝子は弾き飛ぶ。それぐらい強い風を。


「First name」


振り向いた彼は今にも泣きそうな顔をしていた。硝子で切れた頬から流れる血が、赤い泪に見えた。

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