03
医務室は夜のさざ波が聞こえてきそうなぐらい静まり返っていた。本当にここが白ひげ海賊団の船かと思ってしまうほどの静けさだ。
今なら全て夢だったと言われても信じてしまうかもしれない。
「夢、か……」
ポツリと零した言葉は闇に吸い込まれて消えた。
「何言ってやがる」
はずだった。
息を呑む音が聞こえた。それは誰でもない、自分自身の音。
「ど、して」
闇夜のカーテンから現れたのは、私の愛した人。
「クロコ、ダイル、さん」
「……」
名を口にしただけで肌が粟立つ。心の臓が強く早く打ち鳴らす。
First nameは消えてしまいたかった。逃げ道などないのに、逃げなきゃという衝動に駆られて逃げ道を探し頭を振った。
会わす顔なんてない。だって、私は、クロコダイルさんの子を、彼と私の偽りなき愛の証を……コロシテシマッタ。
「ひっ、あ、や……ッ。こな、で。こな、いで。見ないで、お願、い。お願……ッ」
腕を抱いた。膝を抱いた。頭を抱いた。これでもかってほど小さく小さく小さく縮こまって。
失ってしまった腕を隠した。隠すものさえないのに。
「……First name」
びくっ。
「First name」
びくっ。
「First name」
「……ッ、あ」
あぁ、名前を呼ばないで。揺らいでしまうから、消えてしまいたいという気持ちさえも、貴方に名前を呼ばれただけで揺らいでしまうから。
だから、触れられたりなんてしたら……。
「あ、あぁああああ!」
泣いてしまうよ。
どうか、どうか、どうか、私を責めて。責めて責めて責めて、突き放して。
「First name」
First nameはクロコダイルの腕の中にいた。砂の香りがした。ここは海の上、潮風の香りの方が強いはずなのに、砂の香りがした。
走馬灯のように彼と過ごした時間が巻き戻される。
First nameの黒と、クロコダイルの黒が混じる。どちらの黒か分からないくらいに。
「わ、私、私、あなたの」
「First name、お前が生きている」
それだけで充分だ。
「……ッ」
ぼろぼろと止むことのない雨がFirst nameの頬を濡らしていく。
「でも!……ッ」
「First name」
それでも、自分を許せない私は顔を挙げた。久しぶりに見た彼の黒曜石のような瞳は、あっという間にFirst nameを呑み込んだ。
「First name、俺は海賊だ。欲しいものはどんな手段でも手に入れる。許せ、俺はそういう男だ。お前を一度手離したことを謝るつもりはない。だが、それでお前の」
クロコダイルは視線を下へ、下へ下へと向けた。その視線の先はFirst nameの空虚な腹だ。クロコダイルの大きくて骨張った手がそっと腹に触れた。
「俺のガキが死んだのは俺のせいだ。お前のせいじゃねぇ。お前を護れなかった俺のせいだ」
クロコダイルの瞳はもうFirst nameの腹を見てはいなかった。その視線の先にあるのは、そう自身の手首から先がないのと同じように、否、それ以上に、肩から失ってしまったFirst nameの右腕のあった場所。
「俺を許せ、だから」
お前も、お前自身を許せ。
「あ、あ、クロコダイルさん!ごめんなさい!ごめん、な……ん!」
渇いた唇がFirst nameの唇を塞いだ。
「何度も言わせんな、許せ」
少しだけ離れた唇でそう言ったクロコダイルは、もう一度、今度は目を閉じて、じっくりと存在を確かめるように唇を重ねた。
「First name」
愛してる。[ 345/350 ][*prev] [next#]
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