ファンやスポンサー、マスコミを心配させないようにするのも棋士のつとめだ。
俺にも先輩棋士としての矜持がある。二海堂が目を覚ましたときに、あいつには責任なんて微塵も感じさせやしないかんな。
そうして、場を落ち着かせて棋戦を穏便に再開できるよう、会長や職員さんを筆頭に、居合わせた棋士たち総出で対局場や特設会場へフォローに当たった。神の一手(物理)で大荒れのネット中継の雰囲気を和ませるため、俺も急遽ゲストとして顔を出したりもした。


一段落ついて控え室に戻ると、室内には記録係の雫と宗谷さんの二人だけが残っていた。

声をかけんのも躊躇するような、凪の海かってくらいの静けさがそこにはあって、紅茶のほのかな香りが部屋をやわらかく包んでいた。
あ、これ、雫がよく飲んでるやつだ。
香りで判る。レモン入りハーブティーのホット 飲むと落ち着くんですよ、冷房で体が冷えすぎちゃうので 夏場も水筒に持ち歩くようにしてるんです そんな風に、いつだったか 雫が話してた。

自分の前に置かれた淡い琥珀色のハーブティーを、宗谷名人は無言で眺めていた。二海堂と無我夢中で指し合っていた鋭い眼光も、相手を叩いた己の手の力に自分でも訳が分からず驚いてた姿も影を潜め、 常の静寂を纏ってる。

「…えーっと…」

俺が言葉を探しあぐねているうちに、ふいに 宗谷さんが視線をカップから雫の持っていた棋譜の写しへと移動させた。名局と語り継がれるはずだった、▲9八玉で幕切れてしまった棋譜に。
宗谷さんの意を汲み取ってか、雫は手持ちの棋譜を1枚 ペンと一緒に宗谷名人に差し出す。やはり無言で受け取ると、名人は淀みない筆致で空白を埋めていく。
▲9八玉に対し、おそらく二海堂が指したであろう
△76銀。これで必至……かに思われたが、宗谷さんはこれに▲8八歩と続けた。あれ、これは先手に銀が入る?

▲4二銀
△同金
▲2二銀で後手に詰めろがかかり、
△同玉
▲3一角……

これ、宗谷さんの逆転勝ちだったのか?

その一局の本当の姿を示すように名人が最後の一手を締めくくり、ペンを置いて紅茶のカップを傾けるまでの一部始終を、俺と雫は口を固く結んで見届けた。
誰も知らない、俺たちに見えていなかった世界。
激しいまでのまぶしい闇。
その先にある何かに。



*

特設会場を撤去し、12階のホールが本来のシアターに戻すまでの間、目の当たりにした光景が頭の片隅でずっと スローモーションとリピートつきで再生を繰り返されていた。
濃密で、じりじりと胸の火が尾を引く。

連盟職員が最後の荷物を運んでいくタイミングで、シアターの赤いシートに 雫を見かけた。
疲れたろうな。
もしかしたら調子悪いんじゃ…ぽつねんと座っている背中が気になって、隣に腰掛ける。

「最後まで記録係、ごくろーさん。疲れたろ」

「…桐山くんが」

「…連絡あったか?」

「はい」

雫が僅かに頷く。


「二海堂くん、目を覚ましたって。もう 大丈夫だって」


喉奥で絞り出された細い声のあと、堰を切って流れる涙。くしゃっと顔を歪めて頬を濡らす雫が、先の決勝戦まで冷静に記録係を勤めていた子と同一人物かって思うぐらい、か弱い存在に変わっていた。

今日、お前のいろんな表情を垣間見たよ。
あの場所から庇うように宗谷さんを連れ出して、会話と呼べる会話なしに淡々とあの人に接するお前を。俺やいっちゃん 桐山たちに ふにゃっと人懐こく笑いかけるお前とは全然違ってた。宗谷さんの棋譜に、食い入るように目を凝らすお前も。
聞こえてたよ。
動かなくなった二海堂を前に 震える声を抑えて、必死に秒読みにつとめてたのを。気丈に振る舞って臆病を誤魔化す癖、やっぱりいつまでも変わんねえなぁ。

お前がなんで俺なのかは、さておきさ。
俺がなんでお前なのかは 今はちゃんとわかる気がする。


スマホを固く握り締める両手へ自分の掌を伸ばして重ねる。
後ろから抱きすくめたい欲もちょっとあったが、今はただ、震える彼女の指先を握りしめて、復活の呪文を唱える。
これだけで伝わるはずだ。俺が好きになった女の子なら。

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