いつの間に?って気づいたときにはいつも、わたしは彼の魔法の中にいる。
たとえば、ちょっと高い棚から棋譜ファイルを取りたいなと思ったとき。コンビニで抹茶味とイチゴ味のアイスのどっちにしようかと決めあぐねてるとき。慣れない靴でかかとが赤くなってきたとき。スミスさんは先回りして、さりげなく助けてくれる。とても優しく。
今もそう。

「イルカのショーだって。最前列行こうぜ」

水族館の案内板を指差した手が、そのまま 当たり前のようにわたしの手を握り、珊瑚礁の水槽のトンネルを通って屋外へと連れ出した。
イルカたちのハイジャンプ。水しぶきが輝いて、秋の空に散りばめられていく。

「うわっ 近っっ つかジャンプすっげー高い!」

ざぶん、水面を滑り踊るイルカたちに、スミスさんがはしゃいだ声をあげた。
わたしとしてはイルカよりも、満員御礼の客席で好きな人とゼロ距離で座ってることのほうが、近っっ!!って感じなんですけど。
ラフなカットソー、明るい色のフレームの眼鏡に、きれいに整えられた顎髭と髪。隣り合わせで座ると、いつもと違う角度で彼を見ることができるんだ。
拍手をするたびに触れあう近さ 肩がこそばゆい。どうしよう 心臓の音 聞こえちゃってないかな。気持ちが持たなくて、くるりと輪をすり抜けたイルカのトリオを指差した。

「あのイルカたち、スミスさんたちみたいですね。すばしっこくて、人なつっこくて……似てません?色白な子がスミスさんで、小柄な子が横溝さん」

「となると真ん中がいっちゃん?いっちゃんはイルカっつーか、動物園にいそうな感じだよな」

「お猿さんとか?」

「雫も言うなぁ」

私たちが普段まなざす世界は 81マスのフィールドに広がる。
内弟子として師匠のお宅にお世話になってこちら、外出といえば将棋道場に教室に大会、将棋将棋将棋、将棋漬けの日常。でも今日は研究をおやすみして、二人きりでおでかけに来た。「どっか行きたいとこある?」と聞かれてすぐに「スミスさんの好きな場所に行きたいです」と即答したら、案の定笑われました。
ちょっと遠出しての、水族館という 定番のようなデートコースを選んでくれたのもまた、彼の魔法。言葉にされなくても分かった。“棋士生活はこっからが長いんだ。これからは将棋以外のことも、時間かけて楽しんでいって”そういうメッセージなんだと。今日一日、手を繋いで回りながら、そんな明るい声がつむじに降ってくるような感覚がしたから。

あなたの魔法に包まれているとき、“他に欲しいものはない”そう答えてしまいそうになる。好きって気持ちがこんなにも膨らむとは思わなかった。



「すごかったな」

「最後、お辞儀までしてましたね!」

「賢いよな〜。……あ 雫、髪、ちょい濡れた?」

アーモンド色の瞳がレンズ越しにこちらを覗きこんできて、指先がやさしく前髪に触れて。今度こそ、本気で倒れそう。
このまま頬を近づけて、キスしてしまいたい。そんなふうに胸が早鐘を打ち、そしてあなたがいま 同じ気持ちでいてくれたらいいなぁとも、思う。


魔法


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