「みにゃ」

愛しいルームメイトのパンチで目が覚めた。

「んん?」

チリン。鈴を鳴らしてこちらを覗きこんでくる子猫ちゃん。今日はいちごちゃんのほうが早起きかあ 愛らしい黒い毛並みを寝ぼけ眼で眺めてると、乱れた頭に ばーしばーし 肉球プラスしっぽが繰り出されてくる。痛くはない。むしろプレシャスモーニン…

「みにゃあっ」

あ かしこまりましたゴハンですね、ゴハン。お腹すいてるのね。

「はいはいわかったよ」

髪をすきながらベッドを這い出る。時計に目をくべつつ あと数時間で例会も始まる時間かと 空を見上げた。
あいにくの薄曇り。雨は降んなかったけど低気圧には変わりない。ちょっと祈り足んなかったか?

「っくしょいっ」

壁かけカレンダーは3月。
コートも春ものに替えた。
今年もいつの間にか 花粉の舞う季節が来ている。


百通りの理由を君に



このところのみろく亭は11時でも激混みするので、昼時より早めに待ち合わせ。
俺の向かいに座るいっちゃんは、普段は食事中も威勢が良いんだけど、今日ばかりは口数が少なくて、運ばれてきたカツ丼を黙って咀嚼していた。カツに願掛けてるあたりはいつも通りのいっちゃんだが。
相方が静かな理由は言うまでもなく、今日が奨励会三段リーグの最終日だからだ。
一年にたったの二度、地獄の門が開く日。その日はプロ棋士たちも用事がなければ会館には寄り付かない。他者が近づくことを憚られる、あのはりつめた空気。居合わせると生傷が身体の奥で息を吹き返すのだ。今でも三段リーグの夢に魘されるんだと零すプロもいるし、神経をすり減らした下積みの日々の傷は浅くはない。
それに加え 俺たちには、長年可愛がってきた妹弟子の四段入りがかかってる。
兄弟子としては平常心でいられず、大の男ふたり こうして雁首揃えて待機しているというわけだ。雫が勝ったら将棋会館に駆けつけようと示しあわせて、すぐに行けるこの店で。

俺も肉豆腐を食いつつ なんだかんだでスマホをチェックしていた。
雫は今日の日をどう迎えただろうか そんなことを考えながら。


午前の結果を知らせる速報が出たのは、みろく亭の暖簾を背にした頃だった。
雫の一局目に、黒い星がついた。
昇段を左右するここ一番の大勝負、精神的にもかなりキツかったろうな。
俺の隣でいっちゃんが足を止め 涙目で俯いた。

「雫…」

上位二名が白星を飾り、雫に昇段の目はなくなった。だが次点の可能性がまだ残ってり。休憩挟んで午後の最終局に勝てば次点もあり得る。リーグ戦中に次点を二度取れば フリークラスだがプロ入りだ。
あとひとつの白星で来期以降の昇段を大きく引き寄せられるが…

「…さてと、飯も食ったし、どうすっかね〜…」

「なぁスミス やっぱ会館に行かね?」

「…」

「行こうぜ?」

こういうときの、いっちゃんの存在はほんとにでかくって、救われる。
将棋の先輩である以上、負けた人間には一切の慰めが毒なだけ。それはもちろん承知の上。
そんでもさりげなく側にいて、いつも通りバカ騒ぎやってる それがウチの一門の定跡なんだよね。


とはいえ、俺らも人の心配ばかりしていられる身分じゃなく、それぞれに今のクラスの最終局が迫っていた。
気もそぞろながら リーグ戦が終わるまでの時間は自分たちの次なる対局者の棋譜研究に費やす。
棋譜の中、対局相手の欄に時折見つける宗谷冬司の名に 思わず口を固く結んだ。
一度かっさらわれたのは事実。二度目を作らないようにするには、俺自身が強くなるしかない。

脳内で駒を進め、時計も針を進め、5時半をとうに過ぎ、気付けば6時を回ろうとしていた。
今期最後の一戦が終わり、会館を出ていく若い会員たち。年齢制限に引っ掛かった奴の中には もう二度とここに足を踏み入れない人間もいる。

「なかなか来ないなぁ」

「秒読みまで食らいついてんのかな、雫………あっ」

と いっちゃんが声を漏らした先には、今日雫が最終局で対戦してたであろう会員。
ちょうどエレベーターを降りたところ 見かけたそいつの表情で、俺たちは全てを察した。




「雫」

緊張感の余韻が残る対局室の、入り口から静かに声をかける。
ぽつんと座り込む背中 駒を片付けられてまっさらな盤を前にして、雫だけが残っていた。
しゃんと背を伸ばして正座を崩さないまま 動く自由を忘れたみたいに。

返事はなく、敷居を跨いで もう一度。

「具合どうよ?」

左耳に届くようにはっきりと告げると、今度は届いてたみたいだ。
俺の顔を一瞥し、すぐに目が伏せられる。

「いっちゃんが下でタクシーつかまえてるからさ、一緒帰ろうぜ」

「…」

「それとも病院いくか?」

絶対に負けたくない戦いで負けて、千々に引き裂かれたあとだ。憔悴しきって言葉も出ないだろう。
拒絶しないところを見ると、肯定で受け取っていいハズだ。

「ちょっと失礼しますよ……っと」

俺は雫をおんぶして、戦場をあとにした。


*


タクシーに乗り込んでも病院で診察されてもほとんど反応を示さないほどに、雫の疲弊は色濃かった。
生真面目人間はこれだから困る。いっそ自棄になって暴れられたほうがマシなんだよなぁ。
慰めるでもなく、かといって放っておくのも忍びなく、俺は病院から帰るタクシーを途中で降りて、また雫をおぶって少し歩くことにした。時間も時間だ、誰もじろじろ見やしないだろ。

肩より上で揃えた髪に、雫の頭がしなだれかかる。
自分の背中と彼女の体とが密着してんのに、相手と世界が隔てられてるとすら思えてしまうような距離の遠さ。
どうすりゃいい。
敗北の味を知ってたって、自分が粉々になんのと 大切な人間が粉々になんのとでは 全然違うんだ。




「…中盤に、」

ようやっと雫が口を開いたのは、俺のアパートが見えてくるあたりで、だった。

「これはいいかもって攻めをひらめいたんです。手堅くはなかったけど その勝負手をどうしても指してみたくなって

悪くありませんでした。終盤まで形勢も揺れて

でも秒読みに入って、焦って…、それで……」

投了の言葉を口にすると、彼女のてのひらは俺の薄いコートを握りしめ、回す腕にぎゅっと力が込められた。

「ごめんなさい 負けちゃった」

「…」

「もてるものぜんぶ懸けても足りなくて、ごめん、なさい」

「うん」

「スミスさんのこと…振り回してばっかりで、」

「うん」

「こんなに支えてもらってるのに、わたし、スタートラインにさえ…っ」

「…」

涙声に、俺はただひたすらに頷いた。
これは雫自身の戦いだ 謝られる義理はないっちゃない。でも、それで彼女が泣き出せる理由になるならなんだって良い。
言ってやりたいことは山ほどあるけど、今は泣ける理由だけ、あればいい。

「…っくしょい」

月も朧気に霞む夜。
もうほとんど春だ。俺の目頭が熱くなったのもついでに、花粉のせいにしとくわ。

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