古い鳥居と高層ビル。都会の川沿いでは古いものと新しいものがまぜこぜになりながら、いくつもの橋で繋がれている。
東京のこの風景が体に馴染むようになったのは いったいいつからだっけ。川面を眺めると片耳のノイズが静かになるのは、どうしてかな。
半分うわの空、亀よりも遅い足取りで わたしは夏の光のまたたく川縁を歩いていた。

三段リーグの日が近づくにつれて眠れなくなるという棋士は多く、御多分に洩れず、わたしもそうだ。例会前日 しかも今期の最終局の前日ともなれば、満足に研究が手につかなくなる。これまでの数えきれない負けの記憶が無理やり頭の中に押し寄せてきて、喉の奥が苦しくなるより先に、部屋を出た。
9月。秋の匂いが漂いはじめても、お日さまの下は暑く、蝉もまだ鳴いている。

多分ここだ。
たどり着いた清廉な白の建物を、川沿いの階段 一番下から見上げた。あの無数にある窓の、いったいどの部屋に 二海堂くんはいるんだろう。

二海堂くんは意外や意外、頑固な面もあるらしく、人のお見舞いには颯爽と訪れるのに、いざこちらから「お見舞いへ行ってもいい?」と尋ねても、「いやいや心配無用、将棋会館で会おう!」の一点張りだった。
病院のベッドで過ごす時間が彼にとっての日常ならば、そこへ無闇に踏み込むのは野暮かもしれないな、と 聞きながら内心思った。
そういうわけで、彼のいる病室の番号も知らないまま、三段リーグの対局前日にこうして病院まで来ているのは、単なる自分本意なエゴなのだ。

あの日、宗谷さんは“聞こえていた”。二海堂くんが宗谷さんを静寂の中から引っ張りだして、会場で対局に立ち会ったすべての棋士の心に火をつけた。
宗谷名人自ら書き込んだあの棋譜は、宗谷さんからの“見舞いの品”なんかじゃない。終局まで迎えられなかったことへの、果たし状にむしろ近いのだ。
覚えてろよ、と。棋譜が届けられ、病の床で、二海堂くんは、どんな顔をしただろう。
ふたりの勝負は、ちょうど今日の川面みたいに ひたすらに眩しくて。それと真逆に この心に今もくすぶる畏怖と嫉妬の炎は、なんだか濁ったもののようにも思えた。

「明日かぁ…」

明日はリーグ戦 最終日。
今日まで 持ちうる限りの時間を研究に費やした。
明日連勝できれば、わたしは今居る地獄を抜けられる。あの人たちがいる場所に すこしだけ近づけるかもしれない。
けれどそれですら奇跡みたいな仮定。たとえ悲願の昇段を果たしても、その向こうには、身を投じたくとも薙ぎ払われてしまうような苛烈な嵐が吹き荒れている。あの光を目にするのは一握りの棋士だけ―――――

鉛みたいに重い感情をぶらさげて病棟の白い壁を眺めていると、入院外来に、ある人影をみとめた。


「……後藤九段…?」

見間違えてはいない。でも ほんとうに?
そう疑うほど、将棋会館でお見かけする後藤九段とは雰囲気がかけ離れていた。熾烈な一局の後でも感情や疲労を晒さない棋士 けれど遠目に見るその横顔は、入院していた去年の冬に目にした、患者の家族たちの疲弊した表情と酷似していた。どこか憔悴したような面持ちで、外来の入り口で女のひとと言葉を交わしている。
ぬるい風にあおられ、一緒にいる女性の、長い髪に隠れていた頬があらわになった瞬間、頭の中が真っ白になった。
いつ、誰が話していただろう。両耳で聴いていた頃、将棋会館ですれ違いざまに拾った会話が、耳元でよみがえる。


「トーナメント残留多いけど、隈倉さんや土橋さん、島田さんたちと比較すると一歩出遅れてる感じだよな。後藤九段って」
「将棋の内容もここ数年らしくないよな」
「奥さんが倒れたって噂、あれはかなり前だったろう。まだ大変なのか?」



力ない獣の背中で院内に戻っていく後藤九段を見届けると、香子さんはゆっくりと、こちらに体を向いた。
立ち尽くしたままのわたしを見とめ、唇を結んだまま 一段一段、陽の差す階段を降りてくる。こんな光景が前にもあった たしか今年の3月 やさぐれていたわたしを彼女が一刀両断した日に、酷似していた。
あらゆる記憶を駆け巡っても、わたしの知っているのは パズルのピースにも足らない ほんの僅かな欠片。
たとえば、二海堂くんを背負う後藤九段があきらかに場慣れしていたこと。桐山くんが一時期 彼らしからぬ敵対心を後藤九段に注いでいたこと。3月の、A級順位戦の最終局が行われていたあの日。将棋会館にほど近い公園で、香子さんと再会したこと。
ピースのあいだに広がる余白で、皆がそれぞれの人生を、始め、進み、終える。


「またアンタなの」

降りてきた香子さんがわたしを一瞥する。
睨むこともなければ笑うこともなく、足早に去ろうとした。
こんなふうに傷だらけになるまで誰かを支えることも、支え合うこともなく、わたしはこれまでを生きてきた。よく知りもしない人を神様扱いしたり、好きな人に甘えるだけ甘えて、優しさを食い散らかしてきた。
そして今、目の前で泣きそうな顔をしてる香子さんに、気の効いた言葉ひとつかけることもできずに、駄々っ子のごとく 彼女のカーディガンの裾を掴んでいる。

「放してよ」

いつものように一睨みかまそうとして、失敗したのかもしれない。
香子さんの目尻に涙が零れた。

「ほっといてよ。あの人とはもうじき終わるんだから……それまで……」

どこかでジリジリと 今年最後の蝉が季節の終わりを告げる。
この殻を破れたら、あと一度だけでも 生き直せることができたなら。それでもきっと、同じ道を歩いただろう。
蝉の細い鳴き声にまじって、わたしたちは二人揃って、おいおい泣いた。


諸刃のあかつき




『もしもし。おう どした?』

「ごめんなさい、こんな時間に」

『眠れねぇの?』

「はい」

『だよな〜。眠れないよな。三段リーグの前日って。俺も毎回 日の出拝んでたわ』


静かな夜の淵。電話越しに聞こえてくる、彼の声と、軽やかな笑いと、かすかな呼吸の音。
やっぱり この人はいつも、どこも荒らさずに 他愛もない話を選んでくれちゃう。

「あの」

『ん』

「明日、師匠の家で待っててくれませんか?」

『師匠んとこ?』

「師匠、腰痛が悪化してるのに、明日の奨励会が気になって、こっそり会館に来てしまわれるんじゃないかと思って」

『あー そう言われてみりゃそうだな。うん、師匠んちで足止めしとくわ』

「終わったら行きます。2勝して、昇段して、かならず行きます」


必ず行きます だから待ってて。
それだけはハッキリと言い切ると、すこし間を置いて、

『おう。わかった。待ってる』

スミスさんが返事をくれました。
下を向いたらたぶん涙が溢れてしまうから、もう俯かない。


「スミスさん わたしのこと、今まで諦めないでいてくれて、ありがとう」

『…』

「わたし、スミスさ……龍雪さんのことも、龍雪さんの将棋も、大好きです。指してると、いつも すっとやわらかい風が吹き込むみたいに心地よくて」

『雫、』

「指宿で言ったことも絵空事じゃありません。一緒に頂上の景色が見たいです。だからこれからも、いちばん近くに居てください。わたしもあなたのことを、支えますから」

これからの持ち時間で、あなたの辛さや苦しさを受け止められるひとに 棋士になることを、わたしは今日の日に誓います。

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