バスステップから身を乗り出して傾いた雫の体を両腕で引き寄せると、はずみでワンピースがふわっと広がった。海にたゆたう海月の傘みたいにゆっくりと、元の高さに直っていく白いレースの裾。
ドアは閉まった。彼女の荷物は座席に置き去り。バスも遠ざかってく。でもそんなことはお構いなしに俺は目の前の女の子を抱きしめていた。潮騒を耳にしながら、その場でずっと いつまでも―――――



という夢の淵から滑り落ちて、現実で俺が、目を覚ます。

「…」

寝落ちてたらしい。身を起こした拍子に 棋譜やらスマホやらがソファの下にとっ散らかって。カーテンの隙間には朝の日差しが一線延びていた。

「…あーもー、何度目よ?この夢」

あー、喉乾いた。
寝ぼけた頭にはきんきんに冷えたビールは最高に魅力的。だが自制。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して部屋を往復すると、フローリングの片隅では愛猫がまだゴロゴロ寝息を立てているのが見えた。ほんと、快適な寝床を見つけるの得意だねぇ いちごちゃんは。
こんな早い時間にベランダはすでに灼熱の地獄だけども、まぁそんでもいいやと、あっつい手摺にもたげて蝉たちの鳴き声をBGMにペットボトルの三分の一ほどを体に注ぎこむ。
夏の日差しに照り返る東京、先月 海辺の別天地で目にした清らかな水面とは真逆な風景で。しかし自分の住む街並みってやつは、それはそれで安心するもの。

連盟の公式サイトをチェック。
本日の対局予定は東洋オープン戦……といっても俺は本戦トーナメント落ちしてるんだけどね!
奨励会のページに指を滑らせながら、三段リーグの星取表を眺める。

望月雫の行には、先日またひとつ、白星が増えていた。


「そういや、オープン戦も記録係するって言ってたっけ」


あの日。唇にやわらかなものが触れたのと 離れたのはほぼ同時で、それがキスだと気づいた瞬間にはもう 雫を乗せた送迎バスは動き出していた。
そしてオレたちは日常に戻った。
何事もなかったかのように、といえば語弊があるが、今期こそ低迷期をおさらばしたい俺と 今期こそ三段リーグを抜けたい雫の間には互いに暗黙の了解がある。あのまま指宿でもう一泊とか、もしくは東京で二人っきりで会いでもしたら、気持ちに歯止めがきかなくなってあとに引けなくなる。わかりきったことだ。

俺は好きな子のちょっとした変化とか感情の機敏には気づくほうだし、いい雰囲気になったらナチュラルに応じてきたし、適切な距離を保ったり、相手との関係がこまでだろうなと察するのもまた 自慢じゃないがそれなりにやれてきたほうだと思ってた。
それなのに、何よ?この有り様。溺れそう。
てかこれ、もう溺れてんのか。


―――――そして それにも増して気掛かりなのは。

「次来るなら、そのときはタイトル戦がいいです。スミスさんがタイトルホルダーで、わたしが挑戦者で」

決して卑屈じゃなく、ごく自然な疑問として、そう思っちまったんだ。

そんなにまで本当に、なんで俺?って。

雫は本気で、本当の夢と欲を口にした。
でも俺さ、お前を抱き締める夢は何度となく見てても、タイトル保持者として防衛戦に臨む自分と挑戦者として向かい合うお前の姿を夢でもビジョンでも見れてないことを、改めて思い知ったんだよ。

「オープン戦…行ってみっか」

冷たい水と一緒に仰いだ空にはでっかい入道雲がそびえていて、その雲が夕方には雷鳴を連れてくるなんて、朝の頃には知る由もなかった。



雷のあとさき




「何やってんだ 指せ二海堂!」

お前 今勝ってんだぞ!!

聞いたことのない桐山の叫びが、決定的な瞬間の訪れを知らせる雷鳴のように、対局場のフロア中に轟いた。
直後、盤を挟んで伸ばされた華奢な掌と、その衝撃を受けてあっけなく傾いた二海堂の体。「坊っ!!」弟弟子を呼ぶ島田さんの声。

何が起きてる?
一瞬のタイムラグ。
そしてやっと理解が追い付く。
盤上の攻防に圧倒されていた観客たちの熱気は一変。渾然とした会場で 近くにいた棋士たちが二海堂の元へ駆けつけた。一目散に。但し、波風立てることなく。

「俺が車まで背負っていく。タンカより早い。島田、お前は宗谷と対局だろ」

すぐさま二海堂を背負い、足を踏み出した後藤。弟弟子に触れかけながらも、急ぎ去っていく背中を見送った島田さん。
他の棋士たちも戸惑いながらもどこか冷静なのは、各々、心の片隅で想像したことがあったからなのかもしれなかった。
対局がある日は 将棋会館や対局場に程近い駐車場で、爺やさんが車を待機させていること。深夜に及んだ対局の後は、二海堂がしばらく会館に姿を見せなくなること。俺たちに気遣われまいと振る舞う姿を見て、俺たちも二海堂が抱えるものにどんな名前がついているかを聞かないできた。
いつかそんな日が来るやもしれない。
そんな想像よりも強く、そうなるな、と、皆願ってきたんだ。


「……二海堂五段の途中棄権のため、宗谷名人の不戦勝となります」

立会人が終局を告げると、人々の視線は 席に残るもう一人の対局者に集中した。

なんだったんだ
名人が対局者を叩いたぞ
すごい力じゃなかったか
揺さぶろうとして勢い余ったのでは
名人のあんな姿 見たことがない
今のはいったい―――


「宗谷先生」

さっきまで秒読みを告げていた記録係が 濁ったざわめきを裂いて たったひとり彼に、はっきりと呼びかける。

「宗谷先生、戻りましょう」

そうして 傍らで同席していた記録係の雫に腕を引かれ、名人は混乱の渦中を去っていく。

半ば神様扱いしていた存在の、生身の機微。
そして、雫と宗谷さん ふたりの姿をひとつのフレームで以てはじめて目撃し、二海堂と宗谷さんが繰り広げる攻防を見ながら感じたのとはまた別の意味で、体の奥底が焦げ付いたのだった。

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