“午後の2時に 地下鉄の地上口で”

時計の針が示す時刻は約束よりも早いけど、待ち合わせの相手はきっと、先に着いてる。僕の知るかぎりの、その人なら。
予感は当たっていた。
水色の丸い看板ちょうど下あたり 雑誌に目を落としていた望月さんは、真正面を歩いてきた僕に気付いて顔をあげる。

「久しぶり」



「久しぶり 望月さん」

ごめん 待たせたかな。 聞けば、こっちも今来たとこ、と彼女は僕に少し微笑みかけた。
手にしていたのは 連盟の出版部が月に一度発行してる雑誌だ。

「発売前の最新号?」

「そう。ねえ桐山くん、ここ読んでみて」

人差し指でなぞられるページには 今月のはじめに終了した三段リーグの特集が組まれていて。


――――――安定した棋力で◯◯◯◯(14勝4敗)と△△△△(13勝5敗)の両名が四段入りを果たした。
リーグ戦中盤以降の快進撃で話題となった望月雫三段は、今期の昇段・次点を逃したものの、躍進により史上初の女性棋士誕生への期待を大いに高めた。
“兄弟子として雫の健闘は涙なくして語れません!来期は必ず昇段です!彼女が千駄ヶ谷から巣立ち、世界の大空へ羽ばたく瞬間を共に見届けましょう!!”(評:松本一砂五段)
4月×日に開幕する第×期奨励会三段リーグでは、あらたに三段へ昇段の―――――


「えっと…松本さんのこれは…講評じゃなくてエール…だよね?」

「うん。一砂さんて ボルテージMAXまで上がりきるとこうなるんだ」

「そ そっか」

「まあ掲載されちゃったし 兄弟子の沽券にかけて来期羽ばたかなきゃねぇ」

「でも千駄ヶ谷から巣立っちゃまずいのでは?」

「たしかに」



プロ入りをかけた戦いから日が経った。
望月さんは大丈夫だろうか 気持ちを建て直せただろうか。僕のそんな不安は、「よかったら三日月堂へ一緒に行ってもらえないかな」と連絡をもらった瞬間に 雪が解けるようにすっと消えた。
こうして久しぶりに顔を合わせた望月さんの、のんびり話す仕草も、甘いものに目がないところも健在で。
左耳の聴力の半分ほどが戻ってきてると教えてもらい、僕は彼女の聴こえる側に立って、じゃあ行こうかと歩き出した。

「ありがとうね。時々左も聞き取れないことあって…外とかお店とかで会話するの、まだすこし不安だったんだ」

「ううん。ちょうど良かった。望月さんにひなちゃんたちと会わせたいと思ってたんだ。今日はお店にいるって言ってたし」

「お手伝いしてるんだね。すごい」

「春休みだからね」

「春休みかぁ…あれ ひなちゃんて中学3年生だって、前に桐山くん話してたよね。春からは高校生?」

「うん」

「学校は?」

「それがね、橋高に入るんだ」

「橋高に?わあ、おめでとう桐山くん!よかったね」

「ええっ 僕!?」

「だって好きな子との学生生活でしょ?」

「…………」

困ったな。なぜ女の人ってこう、鋭いんだろう。
僕を見て反応を楽しむ望月さん。敵わないなと感じながらも、他愛ないやり取りになんだか安心していた。
赤い橋に差し掛かるまえに、望月さんは僕に、もうひとつお願いがあると言った。


「香子さんの連絡先を できたら教えてもらえないかなあって」

ふいに 姉の姿が視界を掠めた。

「リーグ終わったあと、わたし なんだか自棄になってて。奨励会やめようとしたとこを、香子さんが引きとめてくれたの」

「…姉さんが…?」

「うん。奨励会じゃ顔見知り程度だったし、この前はほんとうにたまたま、会館の近くで会えて。少しだけお話しした」

「…」

「すごく助けられた。きっと迷惑になるだろうけど…香子さんにあのときのお礼をしたいなって」


姉さんがひとの世話を焼いてる姿を、想像してみた。思い描けないことない 優しい言葉で励ましたりはしないだろうし、もしかしたら、ちょっと強引にはっぱをかけたりするのかもしれない。彼女も大切な人や他のだれかの前では、満たすほうの、背中を押すほうのひとでいられるのだ。
どうすることもできなくなってしまった関係たちとは、ちがって。

去年の冬 僕のアパートを時折訪ねてきていた彼女が いつからかぱったりと姿を見せなくなった。

最近はどうしているだろう
姉さんも、目白のお家も…

そう考えて、ほとんど反射的に あの将棋の家が思い出される。棋譜のならんだ戸棚。きちんと小綺麗なキッチン。窓辺にのぞむ庭。やさしい顔つきをしてた 犬のタロウ。それぞれの部屋へ続く廊下…
胸が詰まる。
でも不思議と突き刺さらない。傷んでも、どこかやわらかく甘やかになっている。

ああ これがなつかしいって感情なんだ。



「香子さんて、甘いもの好きかな」

「それなりに……イヤ かなり好きだと思う」

「じゃあ三日月堂のお菓子、送ってみようかな」

「うん。いいと思う。いいアイディアだよ」

「ようし、今日はたくさん買っちゃおう。香子さんへと、研究会への差し入れと、京都に送る分…あと、もちろん自分用にふくふくダルマの春限定品っ」

「持ち帰れるか心配になってくる量だね」

「大丈夫。持ちきれなかったらヘルプ呼ぶから」


望月さんの冗談混じりの言葉は、何か吹っ切れたような晴れやかさがあった。
ヘルプ。
きっとスミスさんのことなんだ。


「変わったね。望月さん」

「桐山くんもね」

満開の桜通りを進みながら、僕たちは顔を見合わせて、ちょっとだけ笑った。


春の足音



「あっっ れいちゃんきたーっ」

「桐山くん!いらっしゃい!おねいちゃーん、桐山くん来たよっ!」

「いらっしゃい。あら、そちらのかたはお友達?」

「将棋仲間の望月さんです。三日月堂のお菓子のファンで…」

「まあそうなの?うれしい」

「はじめまして。望月雫といいます」

「はじめまして。川本あかりです」

「川本ひなたです!ほらモモ、いっしょにご挨拶しよ?」

「モモですっっ」

「将棋仲間ってことは…望月さんも将棋のお仕事を?」

「はい。プロ棋士を目指してるんです」

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