「みにゃ」
前髪をかすめたなにかで、目が覚めました。
「ん…?」
じっと見つめてくる、ビーズのようなまんまる眼。頬にすり寄るやわらかい毛。
「いちごちゃん?」
「みにゃあっ」
鳴いてるのかな。
この甘えた仕草は朝ゴハンのおねだりかなぁ。
体を起こすと、自分が好きなひとのベッドをひとりで占領していることに気がつきました。
わたし、いつの間にここで眠ってしまっていたんでしょう。というか、この部屋の家主はどこへ……?
そろりそろりと寝室を出れば、そのひとはすぐ見つかりました。
ひとさまの家で号泣したあげく寝落ちた厄介な来客相手に、彼はベッドを譲ってくれたんでしょう。大きな体を折り曲げてなんとかソファーに収まって寝ている姿。思わず笑いそうになってしまいました。
ごめんなさいスミスさん わたしの代わりに、あなたはそんなに狭いところで。
落ちてたブランケットをそっとかけ直す。ちょっと失礼します かけられたままのメガネをゆっくり外し、瞑られた瞼にもう一度 ごめんなさいを呟いた。
いちごちゃんのネコ缶をあけながら、スミスさん 昨日は晩ごはんを食べ損ねてしまったのでは?と気になりはじめました。
冷蔵庫を、ちょっと拝見。
卵と野菜がいくらか、そのうえには食パン一袋にスパム缶。拝借しましょう。
眠っている彼を起こさないようくれぐれも慎重に、久しぶりの料理です。といっても挟んでカットするだけですが。できあがった たまごとキャベツとスパムのサンドイッチにはラップをして、ソファー前のテーブルへ。
かくいうわたしも昨日のお昼から食べてないわけですが、食欲が湧きませんでした。泣き腫らした目が痛いし、胸がすかすかして、まるで空っぽになったみたい。
…否。みたい じゃなくて、今のわたしはほんとうに空っぽなんでしょう。せっかく好きな人のお部屋にあげてもらってるのに 昨日はおんぶまでしてもらったのに、胸ときめかせるパワーがまるでないんです。
忍び足でそーっと部屋をあとにし、メトロに揺られ、外苑前から目を瞑っても歩ける自信のある道順を辿ります。
観音坂を昇れば目的地はすぐそこ。わかっていながら、やはり最後の角をただしく曲がれません。
そういえば、本日はA級順位戦の最終局 将棋の世界でいちばん長い一日。今日の結果で、宗谷名人への挑戦者が決まる、大勝負の日でした。
いま将棋会館に行ったら、A級順位戦を観戦する棋士たちと鉢合わせしてしまうかもしれない。それに奨励会の幹事の先生以外と顔を合わせるのは、ちょっとなぁ。
しょうがなく、わたしは明治公園へと、爪先を向け直しました。
見事なまでの青い空。昨日の服のままでは暑いくらいの日差しです。公園ですれ違う人たちもマスク越しにうららかな午後を楽しんでる。
このあたりにベンチがあった気がして 足を進めると、すでに先客がお昼を食べていました。
淡い色のスプリングコートに身を包んだ きれいな長い髪の……あ、目が合い、
「ウソでしょ」
えっ。
そのかたの猫のような瞳で一瞥され、なぜかデジャブ。あれ、このお姉さん、どこかで見覚えが…
「すみません」
「…」
「もしかして」
「…」
「香子さん?」
やっぱりそうです。この心底迷惑そうな表情、桐山くんが内弟子でお世話になってた幸田先生の娘さん。
食べかけのパニーニを口元から離しつつ、
「なんでよ。昨日で終わったんじゃなかったの」
ため息混じりにそう言う、幸田香子さん。
「あの…いま、なんて?」
聞き返すと彼女はしかめ面を三割増しにしました。しくじった という感じで。
「…三段リーグの内容 ご存知なんですか?」
*
彼女が奨励会を退会して以来 ざっと八年ぶりくらいでしょうか。こんなことってあるんですね。香子さんと並んで座る日が来るなんて、偶然ってすごい。
「なんでわざわざ隣に座るの」
「……ベンチ ここ一脚しかないですし」
「それに近いんだけど」
「まあまあ、おかまいなく」
「もう なんなのよ」
お仕事とか学校とか、このお近くなのかな。気になるけれど スマートな尋ね方が思い浮かびません。
彼女とわたしは奨励会で数少ない女子会員でしたが、被っていた時期が短かったし、おしゃべりした回数よりも目を逸らされた回数がはるかに多い記憶が。
そんな微妙な間柄だった先輩に対して、しかも突然の再会にも関わらず こんなに馴れ馴れしく話かけてしまうわたしはやっぱり自暴自棄なんでしょうか。
でも 今日ばったり出会したのが香子さんというのは、そういうことなのかもしれない。
「わたし、退会届けを出そうと思って、来たんです」
「はぁ?」
鞄から取り出した封筒の中身は、奨励会の退会届け。昨日今日に用意したものじゃなくて、実はもう何年も前から署名して、鞄のいちばん奥にしまって 持ち歩いていたものです。
「年齢制限まだじゃないの」
「はい。でも、なにもかも懸けたつもりだったのに、どうしても届かなかったんです。来期うまくやれるとも……到底……」
「…」
「それでも……みんなに悪くて」
「皆って?」
「みんなは…みんなです。父や師匠や…先輩たちや……」
「ふうん」
やや間をおいて 左隣から聴こえる、少し毒のはらんだ相槌。
「普段は周りにいい顔して、いざってときの言い訳は他人任せなのね」
「…それは…」
こんなときに、じわりと涙が浮かぶのは姑息でしょうか。
「なら 代わりに出したげようか」
香子さんはおもむろに立ち上がると、わたしから素早く封筒を奪って颯爽と歩き出してしまいました。
「人任せにすれば気も楽なんじゃない?」
「え…っ」
うそ そっちは将棋会館方面の、
「ま 待って!」
追いかける後ろ背中は、足元がピンヒールなのに速い。なんで わたしが遅いんでしょうか。
「だめですっ!返してくださいっ!!」
「やめるんでしょ」
「……やめませんっっ!!」
走って、叫んだ振動で涙が空に飛んでいき 視界が晴れて。階段の中ほどで立ち止まった香子さんの、寒色よりの金髪も、振り向いた拍子に波のようにさざめいています。ふん、と見下ろし、槍で以てとどめを刺すように、彼女ははっきりと言い放ちました。
「冗談じゃない。諦める覚悟もないクセに、こんなの持ち歩いてメソメソしないでよね」
その細くて長い指先に容赦なく引き裂かれる、まばゆい白。
自分のなかでいちばん長く連れ添った、紛れもないわたしのほんとうの正体。
次第に細かな欠片になっていくそれは、春嵐に乗っかって 桜の花びらみたいにはらはらと舞い上がっていきました。
いったい何故でしょう。
己の臆病が空の青へ解けてく光景に、涙が溢れてくるのにほっとしているんです。
「往生際悪くっても、肝心なもの掴みそこなうよりマシなんじゃないの」
風の間に間にかろうじて聴こえた彼女の去り際の一言は、まるで自分自身に言い聞かせるような声色でした。
「起きたらいなくて ちょっと焦った」
お出迎えしてくれたのは、小さな黒猫と、煎れたてのコーヒーの匂い。
サンドイッチをもくもく食べるスミスさんのとなりに腰掛けて、彼の右側にもたれ掛かかる。すこし開けた窓から 風がひなたの匂いを運んできました。
もう次の季節が来ちゃったんですね。
「うまいよ これ」
あなたの声は、わたしを軽くする風。さあっと体を包み込んで、優しい気持ちにしてくれる。かたわらを行きつ戻りつしながら、見届けてくれるひとだ。あなたは。
「おなか空きました」
「食え食え。俺が作ったんじゃないけどね」
「いただきます」
ありがとう。
ありがとう龍雪さん。わたしは幸せです。あなたを好きになってから、ずっと。
だからもう少しだけ時間をくださいね。
サンドイッチ食べ終わったら、あなたにそう、伝えますから。
いまだ眠れる獅子
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