2月に入り、毎年恒例のMHK杯予選が組まれた。
タイトルホルダーと上の組の在籍者を除いた棋士たちで数局を指し、勝ち抜いた者がトーナメントに出場できる。
予選に出場している棋士たちは二局目を終え、皆それぞれに対局室から出てくるが、外出する棋士は少なかった。あたたかな陽気になってきたこの頃にしては、久しぶりに肌寒い、日曜日。冬と春のあいだに降るような小雨が朝から続いている。
窓越しに、望月さんを見かけた。
京都から帰ってきていると 先月聞いてはいたけど、こうして彼女を見かけるのは12月以来だった。傘を手に観音坂を下る足取りは平然として…というか、あまりに静かで、結った髪だけが歩調にあわせて少し揺れていた。後ろ姿に感じる空気は少なくとも敗者のそれではなかった。
そうか 今日は三段リーグの日。
「うーす桐山。あれ?お前予選組じゃないよな?新人戦優勝者だし」
「僕は今日は研究に来ました。……あの、スミスさん」
「ん?」
片手に缶コーヒーといういでだちのスミスさんが僕の隣に並び、遠ざかっていく望月さんを窓越しに見とめる。
「ああ 雫か」
「…望月さんの調子は…」
「悪くはなってないみたいだな。具合がいいと左耳はだいぶ音も拾えてるってさ」
「そうなんですね……えと、…その…」
「いつにも増して歯切れ悪ぃぞ〜」
「最近は…結構会ってるんですか?」
「雫と?」
「ええと、なんというかその、体調のこともあるし…望月さん どう過ごしてるのかなって」
「んー 暇を見て連絡は取ってっけど、最近はあんましな。向こうが集中したい時期だろうと思って」
望月さん失踪疑惑で騒いだ夜にも思ったけど、スミスさんってこういうとき、追わないんだ。
そういえば以前、後藤の安い挑発を買って掴みかかろうとした僕を止めてくれたのは、他でもないスミスさんだった。そして、それとなく事情を悟って追及せずにいてくれたのもまた、この人で。
深入りせず でも遠巻きに人を気にかけてくれるような……
「雫、今日も二連勝したみたいだな」
さっき星取表見てきたよ。
いつもの何気ないような声で スミスさんは僕に教えてくれた。
三段リーグはプロの公式戦とちがって棋譜の公開や対局中継がなく、その日の結果だけが速報に載る。ファンも携帯の対局成績を追いながら注目してるのだろう。
連盟の一室には三段リーグの星取表があり、すぐに確認できる。望月さんが年明け後白星だけを重ねていると 確認済みらしい。
「ひい、ふう、みい。いま12勝4敗で 残すとこあと2局。粘ってるよなぁ」
「上位が混戦してますけど、残りも連勝できれば望月さんの昇段の可能性は…」
「ああ。かなり高くなったな」
望月さんは宗谷名人のところから帰ってきてから 確実に棋力をあげた。
彼女がひたむきに研鑽に励む棋士だとよく知ってたつもりだ。けれど、耳のことがあって以降に本人のなかで昇段への執着が一層強くなっているとは、僕も周りの棋士たちも誰も想像してなかった。
知りたい 京都で宗谷さんに、どんなことを教わったんだろう……
「桐山 お前さぁ、昔より ちっとわかりやすくなったよな」
「え?」
「顔に書いてあるぞ。宗谷名人にどんな指導受けたのか知りたいってな」
「う……」
「はい残念でした〜。アイツが宗谷さんとこでどうしてたかは、俺もなーんも聞いてねぇよ。誰にも話さないつもりみたいだし」
大方フルボッコのサンドバッグ状態だったんじゃないかなって気がするけどね。スミスさんはそう付け足して、缶コーヒーの残りを飲み干した。
そうだったのか でも、いまやリーグ戦に身を投じる姿には―――そして いま遠ざかっていくその後ろ姿には、どこか宗谷さんの気配に似た静寂が、尾を引いているように僕には見えた。
「史上初の女性棋士もいよいよ現実味を帯びてきたってわけだ」
「…」
彼女の快進撃で世間もざわついていると 手にとるように感じられる。
僕のときはどうだったっけ。プロ入りの時期に強烈な記憶がないのは、あの頃僕が、一刻も早く幸田家を離れなくては、自立しなくてはと必死になってたせいなんだろう。狭き門に滑り込むことだけ考えて、周囲の期待やそのプレッシャーは、実のところ真っ向に捉えられてなかったのかもしれない。
『宗谷のやつ、だんだん治療も受けなくなっていってさ。静かでいい、とか言いやがって』
初の女性棋士。プロ入りを果たしたら、望月さんは台風の目のように、世間の話題を呼ぶだろう。彼女も宗谷さんのように このままのほうが静かでいい、と思うようになるのだろうか。
宗谷さんとの対局での感触を、僕は多分忘れずにずっと覚えてる。それでも、あのまぶしい流れの世界だけで生きることは僕にはできないし、選べない。選ばない。棋士の誰しも、あの場所だけで生きてくことはできないはずなんだ。宗谷さんも例外じゃない。
底無し沼に浸かろうとした僕を 島田さんや二海堂 あかりさんやももちゃん、そしてひなちゃんが、普段の居場所へと呼び戻したように。
望月さんにも……そう考えたところで、隣にいるスミスさんが、ぽつりと呟いた。
「雨なぁ」
「え?」
「いや、最後の例会日、雨降んなきゃいいなーって思ってさ」
雨の日だと、耳の調子悪いみたいだし。
そのさりげない一言で、僕はこの人の、この人なりの守り方を知った。
遣らずの雨
「さーてと。俺は戻ろっかな。予選3局目っ勝って本選トーナメント入りしねーとな!」
僕も今は祈ろう。
彼女の今期最後の戦いの日に、どうか雨が降りませんようにって。
- 26 / 42 -
▼back | novel top | ▲next