聴力の回復が進まず、雫の入院は少し延びた。
自宅養療の段階に入り、ようやく退院のめどが立ったっていうんで、俺は不意うちで面会に行ってみることにしたのだが。

「い〜っす。調子どうよ…って」

雫はベッドから起き上がって棋譜とにらめっこしてて。まー そんなこったろうと思ってましたよ。

「あーもー安静にって念押しされたろうに こんな大量の棋譜持ち込んで…オカンに内緒でゲーム隠してる小学生かお前は!」

誰だ雫に棋譜の写し渡したヤツ 神童の仕業か?あんにゃろ それとも2KDかコラァ!


共犯だれよ?桐山?


黙秘します


わかりましたよ
一つだけ許すけど残りは没収な!


タッチペンの先で短い会話を交わし、ガイド本やら棋譜やらを取り上げようと粘る。しかし向こうも全然引き下がらん。 仕方なく“渡さないんならキスする”と電子パッドに素早く書き込んで掲げたら、雫は途端に耳まで真っ赤になって棋譜を手離した。
自分から仕掛けといて自滅……?なんだこのしょっぱい気分!
ったく 可愛い気あるんだかないんだか。


退院の日、順位戦で付き添いできなくてごめんな
師匠もしょげてたぜ
大事な時にぎっくり腰やっちまってスマンとさ

いっちゃん、何でも好きなもん奢るってはりきってた
たっっかい店ねだっとけよ?
俺も早めに対局終わらせて合流するわ



退院の話に、今度こそこくりと従順に頷いてみせた雫。押収を免れた一枚の棋譜が、しかとその手に握られたままだった。


病院の許可の元 先日参加した三段リーグの九回戦で、雫の黒星は四つに増えた。
持ち時間一時間半を使い果たし 秒読みの末の異例の切れ負け。思うに、秒読みのカウントが届いてなかったんだろう。
リーグ戦の半分が過ぎて、上位との昇段争いに加わるのも厳しくなってきた。本人め顔には出さなくてもかなり焦ってるんだろう 病室の狭い机で頑として対策続けたりして、そーゆー生真面目なとこ、知り合ったときからまったく変わってないんだよな。


“今日からお前たちの妹弟子になる雫だ。お前ら、兄弟子としてちゃんと面倒みてやれよ?”


弟子入りしたての小学生の時分、はじめこそ萎縮してた雫も、いっちゃんや俺らで将棋盤囲んだり何かと構ったりしてるうちにだんだん笑顔を見せるようになっていった、
師匠がなんで雫を弟子に迎えたのか、そのわけ。打ち解けたころになってようやく腑に落ちたんだ。
この世界、プロになれるのはほんの一握り。奨励会を辞めたあと将棋を続けるやつもいれば 二度と指さなくなる奴もいる。で、女流棋士はいても女性棋士はいない。雫が夢破れても将棋へのまっさらな思いを忘れないように、これから飛び込む底無し沼に少しでも明るい光が差し込むようにと ウチの一門で預かったんだって。


そんでもさ。

「プロになったらお兄さんとも指せる?」

「おうとも。対局室で指せる日が待ち遠しいな」


あんときの約束、いまお前の呪いになってねえかな。



「あのさ…しばらく俺んとこ、来ねえ?」


口をついて出た言葉を、電子パッドに書いて改めて伝える。
単純に、また具合が悪くなったら心配だから。
もちろん、一緒にいて雫にストレスがかかんないようならのハナシ、と。
俺の部屋も広くはないけど、前にウチ来ていっちゃんたちと対策したとき使った部屋、雫 覚えてっかな。片せばそれなりに過ごせると思うんだよね。ほら お前いちごちゃんにもなつかれてるし。


すぐ決めなくていい
気向いたらいつでも来いよ
年明けとか その後でもさ



最後に付け加えて、雫の頭をポンと軽く撫でる。気楽にいこうぜという意味合いを込めて。

すると、しばらく液晶を眺めていた瞳がこちらに向いて、片方の手が俺へと伸ばされた。
ぽん、ぽんと撫で返してくる。

「なんだよ?真似?ハハ オレ猫じゃないし撫でられて嬉しかないですよ?」

茶化して笑うも 雫は表情を変えずに、大事なものに触れるような優しい仕草で、俺の頭をよしよし撫で続けた。
おーい、なんだよそれ。ほんの一年前まで俺にお茶汲むだけでも真っ赤に緊張してたクセして。そういうとこだぞお嬢さん。何年も扱いに困っていた俺も、スマートでさりげなく頼れる先輩としていいとこ見せねーと、とか もうその領域すら超えて、も、必死ですよ。

「ごめんな」

広く軽くが心情だったのに、いつの間にこんなドツボにはまっちゃったんだかな。

雫に聴こえていないのをいいことに、頼りない肩に額を埋める。体温が伝わるくらい近くにいるのに、俺たちの距離は、世界でいちばん遠く離れているようだった。
そして小さく呟いた。今まで口に出せなかった重い重い言葉を。

「お前が元気ならそれだけで充分だって思っちまうんだよなぁ、」

お前がそれで良しとするわけないって判ってんのにさ

スノードームに生まれて


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