こどもの頃に思い描いていた理想の大人像なんて、きっと実現するものじゃない。
好みは移ろうもんだし ひとだって変わる。一年という短い時間ですら 俺は自分がだいぶ変わったって実感するくらいだ。子猫を拾って溺愛しちまうとか、妹弟子にうつつを抜かしちまう、とか。 愛しのいちごちゅわんに留守を任せ、将棋会館に歩いて行ける距離の喫茶店で、雫の対局終了までひとり待機してるこの俺の姿が動かぬ証拠。それはそれで悪くないんじゃないかって いまはまだ変化を楽しめる。
ま、情けないことに自分の将棋のほうは停滞したまんまなんですけどねっ。


「…っしゃあ!今日も勝ったか!」

ようやく更新された今日の対局結果。彼女の名前のとこに白星を見つけて思わずガッツポーズ 隣の席のおばちゃんがちらっとこちらを見やった。
悪いね、後輩が大健闘してるもんで こちとら月に数回気が気じゃないの。

“三段リーグを突破するまで待ってる”

そう、俺と雫が約束したのが一年前の冬だった。
ただいま六期 年齢制限を逆算してもまだチャンス は多い。しかも今期はけっこういい流れができてて、こっから黒星が続かなきゃ雫の昇段戦線参入だって夢じゃないほどだ。
もしかしたら、もしかするんじゃないかって気がしてきた。

しっかし、あいつが粘るままとことん付き合うつもりでいたが、待つのって大変なんだな。三段リーグが始まれば会うのは研究会がほとんど、最近は雫も電話に出ないことが多いし、研究中にかけても邪魔しちまうだろうと思って、俺からも最低限のメールにとどめてる。
あきらかな好意(プラス、タチのわるい無防備さ)が近くをうろうろしてんのに進展できないのは、なかなかの生殺しだ。

…さて、今夜はどうすっかな。
Aコース、電話かけてみる。
Bコース、メール送ってみる。
Cコース、将棋会館寄ってみる。
れっきとした白星だし、ちゃんと喜んで次の対局日へ繋げてくべきだよな?いやでも、流石にすぐ連絡入れたら引くか……さも偶然を装って会館でばったり→よう、今日どうだった?のコースも、めちゃくちゃ怪しいよな…。
どうする俺。

そう考えあぐねてる最中の、着信だった。

まさかと思ったが、表示された名前は彼女じゃなく、 “桐山零”。

「もしもし?」

『桐山です。スミスさん、今電話大丈夫ですか?』

「おう。珍しいな、どした?」

『ええと…その じつは、望月さんが会館で体調を崩して、いま一緒に中央病院に来ているんです』

「え?病院!?」

と そこで置かれた一息の間が、そして続く桐山の声が、躊躇った末に絞り出された声色で。
意味を飲み込むよりも先に胸騒ぎを感じた。

『詳しいことはまだわからないんですが…対局中から、……音が…』




突然のことで 自分がいつ喫茶店を出ただとかタクシーを止めただとか、病院に着くまでの記憶は朧気だった。
待合室にいた桐山と神宮寺会長と合流してようやく、今どういう状況かが 少しだけ見えてきた。

『望月さん、対局中から 音が聴こえてなかったみたいで』

桐山がその異変を目撃したのは、奨励会員たちが去ったあとの対局室を通りかかったときのこと。終局しているにもかかわらず、雫は帰る気配もなく将棋盤の前にいた。正座を崩し、背を丸め、名前を呼ばれても振り向かない。集中や疲弊とは異なるその様子を察知した桐山が、機転を利かせ 騒ぎにならないよう、会長に頼ってここまで連れ出してくれたのだ。

「ありがとな桐山 助かった」

「いえ 僕は何も……」

「会長、あいつは」

「あれこれ検査の真っ最中だ。遅くまでかかるだろうよ。耳の場合はめまいやら何やら 吐き気とかもキツイ場合もあるしな その処置もある」

神宮寺会長の口振りの詳しさに引っ掛かりを覚えたが、追及する気にはなれなかった。


待合の席に腰かけて、どのくらいの時間がたっただろう。
診察室の扉が開いたとき、診察室を出てきた雫と目が合った。

「雫、」

無意識に名前を呼んじまったが、聴こえてないって状態を一瞬忘れたのは 雫も同じで。
俺を見て す のかたちで開きかけた口が、すぐに固く結び直されて。そのまま僅かに俯き、再び視線を合わせようとはしなかった。
いまのは。言いかけた言葉は 名前だったんじゃないか?
ひょっとして、俺を呼ぼうとしてやめたんじゃないのか。

ここで雫が わあわあ泣き始めるとか、青ざめて震えるとか そういう弱った姿を見せたのなら、俺も宥めたり肩貸したり 少しは気の利いた行動が出来ていたのかもしれない。けど、そんな慰めができるか。あいつが毅然とした態度を 必死で崩すまいとしてるのに。
声に出さなかっただけで、もしかしたらこれまでも、聴こえてなかったことが度々あったんじゃないのか。大事な時期だと自分に言い聞かせて痛みをやり過ごしてたんじゃないのか。
なんで俺は気づけなかったんだよ。


早期の治療が肝心で、すぐに10日ほど入院して安静に過ごす必要があるという 医師は診察結果を説明会しながら、雫に対しては、筆談で内容を伝えていく。
治療内容を把握して、ゆるやかに数回 頷いていた雫。だが、入院での集中治療が伸びることもあると告げられ カレンダーを提示されたときだけは、断固とした表情で首を真横に振った。その日はなんとしても駄目だ、といわんばかりに。

風雲急を告げる


二週間後に雫が九回戦を控えていることを会長も桐山も俺も判っていて、何も言葉を返せなかった。

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