窓の外 まっすぐに空を舞い降りてくるものが見えた。
今のはなんだろう
鳥か
白い羽か なにか

そこで緊張の糸がふっと途切れて、詰め将棋本のページから、埋没していた意識が浮上しました。
せっかく集中できていたのになぁ でも 視界を掠めたものの正体が気になって、ガラス越しにベランダを覗きこんでみましたが なにも残ってはいません。あれは雪だったのかもしれない。まだずいぶんと早いけれど。
室内に身体を向き直すと、ローテーブルに置いた盤上の駒や、本の積み重なる畳が一様にぼんやり明るくなっていて、陽だまりは確実に、真冬のそれでした。春の足音、という言葉はよく聞くけれど、冬の足音 とはあまり言わない。きっと、今年の冬はひっそりと 静かにやってきているんでしょう。

長い時間没頭していたようで、気づけばもう空は朱色。携帯電話にはメールが一件届いていました。


おつかれさん。
ちゃんとメシ食ってる?



この一年で、スミスさんとわたしの立場は なんだか逆転しちゃったみたいです。対局前でも規則正しく食事とってくださいって 以前は料理片手にあの人につきまとっていたわたしも、このところすっかり自炊が適当になってしまっています。この前なんか、シチューを火にかけているあいだ すっかり棋譜に目移りして、鍋を黒々と焦がしてしまったり。
これから何か作ろうかなというほどの気持ちも湧かず、食欲もあんまり。でも 気分転換に外の空気が吸いたい。コートのポケットにお財布だけ忍ばせてアパートの扉を押しました。


きいんとはりつめた空気。耳をさすような風。すれちがう女子高校たちを横目で見ながら、つい九ヶ月ほど前まで わたしもあんなに薄いスカートと靴下で夕暮れ時を歩いていたのかと、ちょっと信じがたくなってしまいます。
一年って、なんだか短いようですごく長い。
去年の冬 わたしはこの寒さをどう過ごしていたんだっけ……ああ、そうでした。あの人が手を繋いでくれていたから、わたしはすっかり緊張して 茹で蛸みたいになっていたのでした。

スミスさんに 電話をかけてみようかな。
でも声を聞けば絶対に会いたくなって、きっと晩ごはんをいっしょにどうですかって誘ってしまう。
今はだめなんです。

季節がひと巡りし、また冬が来て、今年ももうすぐ雪が降る。
奨励会 三段リーグ七回戦八回戦は、明日と迫っていました。


一年越しのはぐれ雪



「よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」


一年は、風のように瞬く間に通りすぎるもの。最近 ひしひしとその早さを思い知らされます。
時間の流れだけじゃなくて、ひともまた、驚くべき勢いで変わってゆく。
退院早々に新手を繰り出して見事復帰した二海堂くん。連勝を続け B級2組昇級圏内にいる桐山くん。同世代のふたりが目にも止まらぬ勢いで駆け抜けていく その背中を追いかけていたつもりが、気づけば わたしだけが同じ場所をぐるぐる回っているみたいだと 盤を目の前にしてさえ、頭のどこかで考えてしまっている。

春になったらわたしはどこに居るのだろう。

三段リーグは今期で六期三年目。暫定連敗していないだけ大したもんだと師匠や一砂さんが励ましてくれるのは有難いのですが、今の流れではこの鬼の巣窟を突破できないと知っているだけに 息苦しくて
……

…いけない、またこんな思考を。
冷静に。
深呼吸しなくちゃ。
盤面に戻り、慎重に読み筋をたしかめながら、チェスクロックに手を伸ばします。
ボタンの感触 けれど、押して軋むときの音がそのときはしませんでした。

「…?」

自分の側の時計は止まっているし、相手側のは規則正しく歩みを再開しています。故障してはいない。でも音がしなかった。
ふと頭を上げて、そこでわたしはやっと、異変に気がつきました。
三十数人ほどが所狭しと向き合い、いつもなら駒音が絶え間なく響き続けるこの場で、わたしの中にはきいんという 高い耳鳴りしか聞こえなかったのです。

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