はじめて師匠の家に足を踏み入れた日のことは、今でも鮮明に覚えています。
その日はかんかんでりの猛暑日で、古いお屋敷、通された部屋の、これまた古い扇風機がカラカラと音を立てていました。夏も比較的涼しいわたしの田舎とは違う都心の熱にくらくらと 目眩がしたものです。
事実として、わたしには当時から、抜きん出た才能があったわけでも、確実な芽が出る伸びしろがあったわけでもありませんでした。敢えて言うならば、胸に抱く欲をたやすく口にできてしまう子だったというのが 師匠がこんにちまでわたしの面倒をみてくれている理由なのだそうです。
強い欲。
だって、望んでしまったから。
「棋士になりたい」
あの一言を発しなければ、今の師匠の内弟子にはならなかったでしょう。
萎縮していた、内弟子の初日。
夏といえどもパリッとしたスーツやワイシャツに身を包んでいる男のひとたちに一頻り挨拶をしながら、これから先、先輩たちとうまくやっていけるのかと内心怯えていたんです。
そんなわたしに声をかけてくれたのが、あのひとだった。
「一局指してみない?」
奨励会時代の、学生服に身を包んだスミスさん。
今よりも短めで、かなり控えめの色の髪が、お昼の日差しにきらめいていました。
「おいでよ。こっち」
畳の間で師匠や歳のはなれた兄弟子さんたちがビールを飲み交わしてどんちゃん騒ぎをしているのを聞きながら、わたしはそのおにいさんが盤を持って歩いていくのを、だまって追いかけました。
パチ パチ パチ パチ
窓際の、静かなスペースで駒を並べて。
その人がすっと姿勢を正し、「はじめようか」笑う姿が、美しくて。わくわくするのと同時に、どきどきしていました。
眼鏡の奥の鋭い目や、駒を進める長い指。みとれていたんです。
マセガキ。かんちがい。なんだっていい。
この人は手を抜かず、わたしに真剣に向き合ってくれてるって、思えたから。
「将棋、昔から好きなの?」
好きなの?
問われて心臓がどきんと音をたててた。
「はい すきです」
今となってはとてもじゃないけどその人の前では口に出せない言葉。そう、あのとき確かに言いました。
「すきだから、プロの棋士になりたい」
全速力で駆けてきたようにはねあがった心拍数。
スミスさんは指を顎に添え、うん、そうだよな、と頷きました。
嬉しかったんです。
将棋の世界の酷しさをまだ知らぬわたしの、純粋なあこがれを、彼が笑わずにいてくれたこと。
「そうしたら、お兄さんとも対局できる?」
「そりゃあプロなら何度も戦うよ」
「じゃあ、約束!」
「おうとも。対局室で指せる日が待ち遠しいな」
スミスさんは、わたしを指導対局に誘ってくれたときと同じ笑顔で、髪をすこし揺らして微笑んでいました。
あのとき、やわらかな風が胸にふきこんで。
ふたりだけの約束が、最初の最初。彼が忘れていようとも、固く固く守り続けています。
だってあのとき、もうとっくに恋に落ちていたんです。
わたしとあなたの約束
出会ったあの日から十年。
彼との約束は未だ果たせず わたしは三段リーグを突破できていないし、自分の気持ちを伝えてすら、いない。
「…同じ土俵に立てない限りは告白しないって、決めたんです」
たとえ、バレバレでも。そう決めていたはずなのに、
「それでいいのか?」
島田先生の一言がいつまでも耳を離れないのはなぜでしょう。
わたしが取り付けた約束が到底叶いっこない夢だと、わたし自身 胸の内でそう思ってしまってるからなんでしょうか。
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