その日の木の葉隠れの里は、まだ梅雨も迎えていないというのに真夏のような暑さに包まれた。
火照るような陽気に、数えきれぬほどこの季節を過ごしてきたなのかは、何か常ならぬ予感を感じ取っていた。
なのかの勘が間違っていないという証拠に、いつもなら上忍の仕事でこんな時間に現れないはずのシカダイが、ふらっとやって来る。
「どうしたのですか?シカダイ」
「親父のことで来た」
シカダイはいつになく神妙な面持ちで告げる。「医者の話では、もうじきらしい」
「…そうですか。わかりました」
かねてよりシカダイからシカマルの近状を聞いていたなのかにも、その意味は皆まで言わずとも判っていた。足腰を悪くしてからの彼とは、もうずいぶん顔をあわせてないが。
咲いて枯れてを繰り返し、なのかが待ち続けていた“その時”が、すぐ目の前まで来ているらしい。いざ対面してしまうと、もっともっと後でも良いのに、という気持ちが溢れてきた。
この世の春ももう終わり。
そして今日がその日か、と。
なのかは土に根差した足へ目を向けると、両腕を添え、精いっぱい引っぱった。思った以上に根は緩く、いとも容易く片足が土から抜け出た。もう一方の足を引っこ抜くと、なのかは生まれてはじめて、何の支えもなしに二本の足で立った。
「さて。道案内をお願いできますか、シカダイ」
* * *
シカダイに続いて、覚束ない足取りで住まい慣れた奈良家の森を離れる。
木立を抜けると、そこには見たこともない世界が広がっていた。目にするもの、全てがはじめてで新しいが、しかしなのかは全ての名前を知っていた。
あれが家。あれがビル。電車に、電気に、飛行船。
知識を与えたのは、これからなのかが向かう先にいる、他でもない奈良家の人間たちである。
「なのか…よく来てくれた」
「お邪魔いたします」
なのかは足についた土汚れを落とすと、今度は出迎えたテマリの後ろをついて、瀟洒な住まいの中を歩いた。
やわらかな風の吹くくれ縁に通されると、そこには板戸に背を持たれて眠るシカマルの姿があった。気を効かせてのことか、テマリやシカダイ、シカダイのこどもらも、皆居間へと去っていった。
「シカマル」
名前を呼ぶと、やおら瞼が半分開かれる。
「なのかか」
「シカマル、老けましたね」
懐かしい生意気な口振りに、シカマルはゆっくり答える。「変わらねェのはお前位だよ」と。
昔ほど頭が回らずとも、なのかがここへ来た理由を、シカマルも理解していた。
ほとんど白髪に染まったちょんまげ頭を見、なのかは問う。
「シカマル、死ぬのですか」
「ああ。そろそろな」
「まだ早いのでは?」
「早いって、お前、迎えに来たんじゃねぇのか」
「そのつもりでしたが、テマリを悲しませるのは気が引けて」
「オレはかみさんより先に逝くって決めてんだ。昔っからな」
シカマルは老いた体でくつくつと笑うと、最後に一服したい、と言い出した。
なのかはシカマルの懐から小さな箱を探し出すと、指を添え、細い筒を取り出した。慣れない手付きでライターに触れる。
やがて立ち込める苦い香りに、なのかはこの身を灰にくべているような気持ちになった。事実、土から離れた体は、水分を失ってひなびてきていた。こうなることは、土から離れたときに覚悟していたが。
「この歳になりゃあ…お前が昔言ってたこと、答えられると思ったんだがな」
「生きる意味、ですか」
「ああ。めんどくせーことに、もう終いだって時にまで見当たらねえ」
肺に苦味を閉じ込めて、いち、に、さん。青々とした桜の葉に、煙はいっとう白く映える。
「ここにくるまでに見ましたよ。あなたが守ってきた里」
「どう思う?」
「色鮮やかできらきらしてて、まるで夢みたいでした」
「そうか」
「やり残したことがあるなら、今のうちですよ。シカマル」
「今更ねぇよ。そんなもの。ミライには全部教えたし、シカダイも立派に育った。悪くねェだろ」
シカマルはなのかの旋毛に手を伸ばすと、「お前はどうだった。なのか」問う。
なのかは笑って、シカマルに答えた。
「はい。最良の人生です」
楽しみも悲しみも、全部シカマルがくれた。散々ほしいと願っていた涙も、もはや必要ない。
友でもなく、妻でもないとしても、他の誰かへとも違う形の愛しさを注がれていたのだから。
最後の灰が落ち、なのかの黄色い花びらも、床板にはらはらと落ちていく。
彼の額に、頬に、唇に、生涯触れることはなくとも なのかにはなのかの生きる意味、別れ花としての最後の役目が残っていた。
* * *
「シカマル、こっちです」
出会った日のように、シカマルは黄金色の絨毯になのかを見つけた。
あれは何年前のことだったか。
いや、そんなことはもうどうでもいい。
やわらかな笑みを携えて、なのかが手を振りながらこちらに歩いてやってくる。
そうか。なのかももう自由か。シカマルは安堵した。
「こっちです。間違えると賽の河原にいっちゃいますよ〜」
「こっちって…どっちだよ」
「その橋です」
「あっちは?」
「あっちはジャシン教の入り口」
「縁起でもねェな…」
「あ、渡り方を覚えておいたほうがいいですよ。テマリが来るときは、あなたがおぶってもう一度渡ることになるので」
「げ…マジかよ。めんどくせー」
いつもの口癖を呟きつつ、シカマルはいちめんのなのはなへ一歩足を踏み出した。長い旅路の果てに掴んだ、雲のような身軽さで。
鮮やかなまでの黄色の花びらに、決して終わることのない、永遠の春を見た。
(終)