人一倍現実主義な奈良シカマルが菜の花に名前を与え、他の仲間の前では語れない本音を打ち明け、しまいには文字を教えて本まで選んだ。本人すら信じがたい光景だが、もっともこれは なのかを人ならざる存在として、力を持たない存在として割り切った上での行為だった。
花は日毎に姿を変える。シカマルを迎える黄色の絨毯は日に日に橙色へと変わりはじめていたが、それでもなのかに不安はない。朝が来て、陽が昇り、沈み、夜が来る。永遠のような繰り返しのその合間に“シカマルが来る”が追加された ただそれだけのことなのに、なのかには明日が待ち遠しい特別なものになっていく。この森の外に人々は木の葉隠れという里を作り、家を持ち、暮らしているという。いつか、自分も。なのかは淡い夢を抱き始めていた。
春嵐のある日。
里の新緑に分厚い雲が被さり、里外任務に従事していたシカマルは、木の葉隠れの方角へと目を凝らした。季節を遡るような肌寒さといい、どうにも胸騒ぎがしてならない。彼のいやな予感は的中し、灰色の空が春の雨を呼ぶ。
何もかも洗い流すようなざあざあ降りが、丸一日続いた。
* * *
明くる日の森は、中身をひっくり返したように雑然としていた。ぬかるむ土に足を取られながら、シカマルは湿った枝葉を掻き分けて奥地にある結界に辿り着く。
「なのか…無事か?」
そこで 変わり果てた黄色い菜の花畑を目にした。
「おい、なのか!」
沢山のなかから彼が唯一名を与えたその花は、自慢の髪を地面に洗い流し、ぐったりと身を横たえて動かなくなっていた。
首の後ろに手を差し入れて起こしてやると なのかはシカマルの顔を見上げてぼんやり微笑む。彼女特有の鼻につく青臭さすら 土に流されてしまった。花弁など、雨を含んで風に揺れるだけで舞ってしまう。紙吹雪のようなその儚さよ。
「シカマル」
「大丈夫…じゃねェな」
「そんな顔しないでください、シカマル」
そんな顔といわれてようやく、シカマルは自分がどんな顔をしてを見下ろしているか自覚した。
「悲しまないでください。もとより十日ほどの花ですから。また来年に、このあたりにしれっと咲きます」
「んなこと言ったってよ…」
なのかはシカマルの頭を撫でてみた。数日前と同じように、慣れない手つきで。僅か数回のうちに、その腕も散り落ちた。なのかを彩る花びらが一枚 また一枚と剥がれた。
「あーあ、残念。せっかくの腕が」
「うるせェ。黙ってじっとしてろよ」
「わたしのようなものを狂い咲きと言うんですかね」
「バカ、言葉の意味が違ェよ。狂い咲きってのはな…」
「いいんです。狂人の手を借りて生まれたわたしですから」
たしかに人ではない。
それなのに何故 こんなにも心が痛む?
「シカマル、あなたへの憎しみから花開いたわたしは、実を言うとあなたの死を導く存在だったんですけど」
「はあ?」
「実を言うとれっきとした殺意を持ち合わせています」
「…マジかよ」
「なんちゃって、ウソです。菜の花ジョーク」
「笑えねェよ」
と、シカマルは怪訝な溜め息をついてみせる。なのかの頬を撫でようとシカマルが指先を伸ばしたその時、森の枝葉を大きく揺らす風が吹いてしまった。
シカマルが一度として肌に触れることなく、
「また来年会いましょう、シカマル」
なのかは散り散りになった。
* * *
春を終わらせる嵐。ながい梅雨。真夏のまぶしい日差し。秋は夜を眺め、冬は木枯らしを忍ぶ。
一年が風のように過ぎ去ったころには、シカマルはなのかのことをそうそう思い出さなくなっていた。花びらを春の終わりに降らせて、そそくさと旅立ってしまった彼女。しかしながら 木々の蕾が膨らむ時期は当たり前に巡り来るものだ。
次の年の春、なのかは約束通り、寸分違わぬ場所に芽吹いた。
「シカマル」
地から顔を覗かせた記憶の中の姿よりも一回り小さいのは、時期がまだ早いからだろうか。
「…なのかか?」
「はい。お久しぶりです」
「お前、なんで…」
「言ったでしょう。来年会いましょうって。この一年はどうでしたか?楽しい一年でしたか?」
「まあ…程々にな」
呑気に笑いながら、なのかは肌にこびりついた泥を落としている。以前と変わらぬ花びらの色をした髪と、魅惑的なみずみずしい素肌が露になった。
「お前って…マジであいつの呪いだったりしねェよな?」
「彼の神様に聞かないことにはわかりかねます。少なくともシカマルの喉元に噛み付くつもりはありませんが」
笑えない冗談を口にする彼女のために、また女物の服を用意しなければ。
春の十日間かそこらを過ごし、別れ、翌年も会う。慣れというのは恐ろしいもので、さらに翌年の春になると、シカマルもそろそろかと気を回すようになっていた。なのかが花開く時期に女物の着物を携えて森に赴くほど、用意周到に。
お前は何者かともはや尋ねることもなくなり、シカマルは淡々となのかの帯を整えてやる。なのかはこの瞬間が嬉しくてしょうがない様子で、にこにこと大人しくしているのだった。
「シカマルに帯を締めてもらうのも、これで三回目でしょうか」
「いい加減自分で覚えろよな。めんどくせー」
「相変わらず無精なのですね」
「人間、一年や二年でそう変わりゃしねェよ」
「シカマル、この一年はどうでしたか?」
春にだけ会う友人、なのかは決まって最初にシカマルに尋ねた。長い時間を眠って過ごす彼女にとって、春夏秋冬を陽のもとで暮らす人間の生活は未知の世界。知りたいことは山のようにある。
「どうもこうも大変だったんだぜ。地球滅亡の危機とか」
「地球滅亡?まさかあ」
「そりゃ土ん中で眠ってたお前は知らねーだろうがよ…」
のどかな森に腰をおろして、その年に起きたことを教えてやる。自分がどう過ごしていたかを話すうちに、一年や二年で人間は変わらないと言っておいて何だが、シカマルは自分が一年前と比べて大人に近付いていっていることを実感せずにはいられなかった。
父や恩師とそう変わらない役目を、知らず知らずのうちに担っていたのだと 気付いては満ち足りた気持ちになるシカマル。
その一方でなのかは、人の形をした自分が、人と同じように時間を生きられないもどかしさを感じるようになっていた。
時間の流れ方が違うふたりが物事を共有するのは 年を重ねるごとに難しくなっていった。
「けっこん」
「ああ」
数回目の春のこと。なのかを着付けた後、シカマルは懐に隠し持っていた煙草を取り出した。添えられたの指にきらりと光る輪がはめこまれている。
「けっこんとは何ですか?」
「教えてなかったか?」
「はい」
「結婚ってのは…そうだな…別の人間と新しく家族になることだ」
「家族」
人間は妙齢になるとパートナーを自分の足で探して見つけるらしい。なのかはぽかんと口を開けたまま、さらに詰問した。
「その人間はどんな方ですか?」
「どんなって…まあ、気の強ェ女だよ」
煙に巻こうとするシカマルだったが、仕草には照れ臭さがはっきりと入り交じっている。
いずれ連れて来てやるよと言うシカマルに対し なのかには嬉しさとも怒りともつかない何かが身のうちに芽吹いてくる。気づいた時点ですでに散っていた、はじめての感情だった。