職場において、デスクの斜め左にある窓は唯一の良心だ。
真っ青の空や深緑の峰々とか、別段うつくしい風景が縁取られるわけでもない。写るのはなんの変哲もない喫煙所。
昼時、大人たちが磁石で引き寄せられるようにその小さなスペースにやってくるのを、物書きの合間に私は眺めている。

くたびれたベンチは忍者ベストの褪せた緑でごったがえし、心なしか白っぽく霞んでいく。煙いから窓は閉めておく。
煙草を吸わない私に 彼らの愉しみ方はいまいち判らなかった。
副流煙を浴びるより、金木犀の甘い匂いを横切るのが好きだった。

秋の始まりの話をしよう。
残業で居残りしていた私は、窓越しにとある人影のシルエットを捉えた。 頭のてっぺんで束ねた黒髪が長い影をつくっていた。
あれは、六代目火影の補佐役をやっている、あの人だ。

(シカマルさんて、煙草を吸うんだ)

昼夜仕事に忙殺されているであろう彼を、関所からも遠いこの不便な場所で目撃したことは一度もなかった。

裸電灯の照らすベンチには座らずに、懐から取り出される 年季の入ったライター。
しゅっと火が灯る。
深く吸い込み、胸に溜める。
3秒。
ゆっくりと煙は吐き出される。

かっこいい吸い方だった。

彼が燻らせていた煙が、彼の横顔が、目に焼き付いて離れなかった。
どこを歩いていても、苦い煙を感じるだけでほんのり期待してしまっている自分に気付く。

その日の帰り道。遅めの夕飯をと思って立ち寄った24時間商店で、店員の背中ごしに、先程ちらりと見掛けたのパッケージを見つけてしまったのだった。

「あ、あの」考えるより先に指をさしていた。「あの青い…」「10番すか」「え、あ、はい、それです」


翌日の話をしよう。
夕方になり、昨日の影がひとりで現れたのを見計らって、初めて窓枠の中へと進み出た。hi-hihiのパッケージ握り締める手は震えていた。

「おう。お疲れさん」

シカマルさんから声をかけられた。

「お、お疲れ様です、シカマルさん!」

少し距離を取って並んでみる。
彼は横目で私を見る。

「へェ…シズクも煙草吸うのか。意外だな」

「最近は禁煙してたので」

嘘だった。昨晩なんて、見よう見真似で吸おうとしたら噎せて噎せて喉は痛い、クラクラする、おまけに涙は出るしで、とにかく苦しかった。

「…えほっえほっ」練習の成果虚しく、私は憧れの人の前で咳き込んだ。

ハハと笑われる。ああ、バレてしまう。

「大丈夫か?」

「ひ、久しぶりだと流石にキツイですね」

「重めだしな。もっと軽いのからにしろよ」

「そうですよね」重い?なんのことやら。

恥ずかしいくらいお見通しだったのだろうと思う。煙草の重い軽いの認識すら持ち合わせず、煙を肺に満たすこともできていなかった私に見栄っ張りに、シカマルさんは甲斐甲斐しく付き合ってくれていた。
しかし慣れとは恐ろしい。
いつしか私は嫌煙家の肩書きをすて、噎せこむこともなしに、ほんのりとしたラムの味を気に入ってすらいた。
そしてシカマルさんとは、喫煙所仲間になった。

《お疲れ様です》《今度まかされた例の件の相談なんですが》《そういえば○○さんって…》

面倒見のいい彼が二本を吸い始めた間に、世間話や愚痴や、その他当たり障りない色んな悩みを聞いてもらう。
散々甘えておいて何だけれど、一本目だけは決して口を挟まないことにしている。

彼は考え事をしに、吸いに来てるのだ。
何かを
あるいは誰かを。


ある時、彼岸を過ぎた頃だったろうか。

「よう」

「あ、お疲れ様です…」

シカマルさんが喫煙所に立ち寄るのが、夕方から昼に変わった。
私は理由を、それとなく聞いてみた。

「帰りの一本は家に帰るとすぐバレちまってめんどくせーからな…」

含みのある一言が全てを物語る。
こんな外れの喫煙所で、人目を憚るようにシカマルさんが煙草をたしなんでいた理由は、そこにあった。
それまで近付かなかった私が彼の喫煙を知らないのと反対に、一番近くにいる奥様は、さぞご立腹なのだろう。彼の奥さんが怒るとめっぽう厳しい方であるのは、周知の事実。それだけはとっくの昔に知っていた。

「いつ吸っても匂いは染みついちゃいますし、どうせ判っちゃいますよ」

「そうなんだよなぁ…」

シカマルさんはちょっと困り顔で、めんどくせー、と呟いていたっけ。



私の淡い感情を、冬の話で締め括ろう。
木枯らしがいっとう冷たくなった頃、シカマルさんは喫煙所に姿を見せなくなっていた。
隠れ喫煙が家内にバレてこっぴどく叱られたのだと、いつぞやか街中ですれ違ったときに教えてくれた。
けれど彼の禁煙はもっと別の理由がある。
それくらい、他の連中から聞いていた。うそばっかりじゃん、と内心では思っていた。


あれから 四季は何度か巡りめぐる。
窓枠からのぞく喫煙所に毎日通いつめていた私は、すっかり足が遠退いていた。けれどどうしても、冬の終わり、夏の夜、秋のはじめ、季節が変わる頃に必要になる。
肺に煙を満たす三秒間、最初だけ、私はあのひとの横顔を思い出す。

私のための窓に、あのひとの姿はやはり写らない。
あのひとへの気持ちがとうに流れていっても、この苦い匂いだけ、いつになっても染み付いてはなれない。
息子さんが生まれてからも あのひと、まだ禁煙続いてるかな。
それともどこかで隠れて吸ってるのかな。

再び秋が巡り来るときは、思いきって一箱プレゼントしてみよう。
悪い女だって?
そうかもしれない。
私はそんな大人になった。

灰の窓辺




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