▼意気地なし
「あと鹿の角もってきな!」
綱手様が開いた分厚い資料は、奈良家の秘伝の薬剤調合マニュアルだった。シカクおじさまが長年積み重ねてきた、医療班でさえ脱帽する膨大な研究。チョウジ君の治療にと、おじさまが本家から持ち込んだのだ。
鹿の角の粉末が入った包みを差し出すと、綱手様は調合に集中しながらわたしに言った。
「お前はもう上がれ」
「え、でもまだ……」
「任務明けの追跡と長時間の治療。疲れてないとは言わせないぞ。処置にボロが出ないうちにさっさと休め」
重い扉を開けると、治療室のすぐ脇の椅子にシカマルとテマリさんが座っていた。
足を組んで楽にしているテマリさんと対照的に、シカマルは前屈みに肘をついて落ち着きなく指を揺らしている。
集中治療室と違ってしんと静かで、長く続くまっすぐな廊下には、少し離れた位置で壁にもたれるおじさま以外誰もいない。
今回の任務で、チョウジ君は秋道一族秘伝の丸薬を使った。服用すれば必ず死ぬという危険な代物で、現に今は生死をさまよってる。
奈良一族と秋道一族が代々仲のいいところをみると、もしかしたらおじさまも、チョウジくんのお父さんが瀕死に陥った状況を経験しているのでは、と思った。
今のシカマルとまったく同じように。
おじさまがマニュアルを運んできてから幾分経つのにここにとどまっているのは、チョウジ君の容体を気にしてのことなのか、それとも。
治療室から出てきたわたしに、チョウジは、といわんばかりに席を立つシカマル。
まだわからないと正直に告げると、目線を落としてゆっくり座り直した。力が抜けたような動きだった。眉間に刻まれた皺だけがいつもよりずっと深い。
「お前がイライラしても仕方ないだろ」
そんなシカマルの様子を見かねてテマリさんが言った。
「任務に犠牲はつきものだ。精神訓練は受けてんだろ」
「……訓練と実践は違うだろ」
思えば帰還してからシカマルと一度も話していない。
話したいことが多すぎて、ひとつも言葉にできなかった。
わたしはどちらの椅子にも座らず、シカマルとテマリさんの会話を遠巻きに黙って聞いていた。
「……任務がどういうもんかは分かってるし…忍の世界がこういうもんだってのも分かってたつもりだ」
シカマルの声が頭に、長い廊下にやたらと響く。
「オレはよ…今回の任務で初めて小隊長についた。それで分かった……オレは忍にゃ向いてねェ……」
その一言は何度も繰り返し耳に響いた。
――あのシカマルが、弱音を吐いている。
「案外モロいんだな。男のクセしやがって」
「今回オレが小隊長として出来たことといやぁ……みんなを信じることだけだった。オレが甘かった、力が足らなかった…全部オレのせいだ……」
胸がざわざわと波立って、わたしはチョウジ君とネジを発見したときの光景を思い出していた。
死にものぐるいで戦ったあとの、穏やかな顔。
遅れて救出したキバの強がった笑い方と赤丸のちいさな鳴き声。
まだ帰らないナルトと……。
「……傷付くのが怖いのか?」
テマリさんのはっきりした物言いにシカマルは答えずに、下を向いたまま歩き始めた。
ポケットに腕をつっこむ猫背の後ろ姿に、感情のいとがぷちんと切れたのを感じた。
「待ってよ!!」
気がつけば自分でコントロールできないくらい大声で叫んでいて。
「みんなまだ戦ってるんだよ!?なのにシカマルひとりで逃げんの!?みんなを置いて…!」
向いてないとかオレのせいだなんて、そんなのシカマルには、シカマルだけには言ってほしくない言葉だった。
「……意気地なし」
本心だったかわからない。
どちらにせよ、聞こえるように呟いた自分の一言はひどく小さくて、声が震えていた。
わたしは手のひらをぐっと握りしめ、走ってその場から去った。背中とすれ違う瞬間が、永遠みたいに長く感じられた。
「……!」
途中、窓ガラス越しに見えた、カカシ先生とナルトの二人の姿。
二人だけ。
涙は出なかった。胸にぽっかり穴が開いたみたいだ。
本当に行ってしまったんだ。
「意気地なしなのは……わたしの方だ…」
意気地なしは、サスケに本気でぶつかりきれなかった弱い自分だ。
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