▼艮の襖

見慣れない部屋をぐるりと眺める。机にある、書きかけの報告書。備え付けの家具や表具。なんていうか、借りたままという感じ。それがカカシ先生の部屋の第一印象だった。窓際に並んだふたつの写真立てだけがぼんやりした部屋の中でくっきりと、この部屋の持ち主の過去を教えてくれる唯一のものだった。あたらしい写真、第七班のカカシ先生のことは知ってる。けれど古い写真の小さな先生は知らない。
ねえ先生、いつからここで一人で暮らしてるの。
その瞼の傷は、その赤い瞳は、どうして先生のもとにあるの。これまで一体何度、泣きながら誰かの名前を呼んだの。
わたしはいつもわたしのことばかりで、先生のことを全然聞いてこなかったのだ。

カカシ先生が倒れてから3日目、先生の意識はまだ戻らない。時折額に汗を滲ませては苦しそうに呻いていた。頭のタオルをあたらしく絞って交換しよう手を伸ばしたとき、先生の伏せられた左目から、涙がつうと伝ったのを見てしまった。

「せん、」

由楽、

わたしの口から言葉が消えていった。
胸が詰まり、急に瞼がじわじわ熱くなった。
掠れた声で紡がれたのが あの人の名前だったから。
先生が待ち望んでるのはわたしじゃない。
ごめんなさい。
ごめんなさい、そのひとはいないの。
今はわたししかいないの。


波の国の任務でさえ身体への負荷で済んだのに、もしもカカシ先生が精神崩壊を起こして、このまま目を開けなかったら?
カカシ先生だけじゃない。イタチの帰還を聞き付けて飛び出していったサスケも、カカシ先生と同じ術中にかかってしまったのだ。今は病院で治療を受けている。
2人とも寝たきりになっちゃったらどうしよう。
それに自来也様やナルトの身にも危険が迫ってる。万が一のことがあったら。そう考えると、ただただ恐ろしくてたまらなくかった。

*

その日の夕方に、先生の部屋に来客があった。
木ノ葉情報部の山中いのいちさんだ。
カカシ先生にかけられた幻術を調べにきてくださったのだ。

「端的に言うとだ、今のカカシは精神に受けたダメージが及んで心身ともに非常に不安定になってる。これからオレの術でやつの頭の中に潜り、ダメージを調査して覚醒を促す。あちらでカカシ本人と接触が図れれば一番いいんだがな」

「…えーっと カカシ先生の精神世界に入り込むってことだけは……わかりました」

「それだけ判ればいい」

いのいちさんは説明の合間に、情報部から持ち出した器具を先生の頭に取り付け、術式を書き、準備を進める。
カカシ先生の、精神世界。
そこで 先生に会えるかもしれない?
ほとんど反射的に、わたしはいのいちさんに頼み込んでいた。

「いのいちさん、わたしも連れていってくださいませんか?」

「キミをか?気持ちは分からんでもないが、やめておけ。精神に介入する術は非常に難しい。無理にこじ開ければさらなる損傷に繋がるし、素人が潜りると戻れなくなることもある」

「でも、わたし……カカシ先生が苦しんでるのをただ見てるだけでいるのはもう嫌です」

「そうは言ってもな」

「カカシ先生はいつも、何度だって どこにいたって わたしを助けにきてくれました。だから……」

唇をぎゅっと噛み締めて懇願を続けた。いのいちさんは最後には わたしのわがままに折れ、術に同行することを許してくれた。

「戻れる保証はないぞ」

「承知の上です」

「……いのといい、年頃の子に頼まれると敵わんな」

いのいちさんと両手印を結び、わたしたちはカカシ先生の意識のなかへと落ちていった。




瞼を開くと、暗がりにいた。だんだんと視界が確かになるにつれて、自分の手元がわかってくる。すぐ側で、いのいちさんが小さく呟く声がした。

「慌てることはない。周りをよく見渡してみなさい」

そこは、畳の間のような場所だった。

「人の頭の中って こうなってるんですね」

「ここがどういう構造かは一人ひとり異なるんだ。カカシは手練れの忍だ。こうして客間の形態になってるのも外部からの侵入に気付いて警戒しているのだろう」

そう言って、いのいちさんはまっすぐ前を指さした。夜のように暗い客間。わたしたちの正面に、いくつかの襖がある。よくよく目を凝らすと、襖に“乾”の文字か書かれているのをかろうじて読み取ることができた。
その場でぐるりと回ってみると、襖は全部で4つの方向にあることがわかった。
艮、巽、坤、乾。
襖はどれも閉められていたけれど、どういうわけか“艮”と記された襖だけ、隙間から赤い光が差し込んでいた。

「いのいちさん、あの“艮”って襖、奥に赤い光が見えませんか?」

「ふむ……あれは他と違うな。罠かもしれんが」

注意を払いながら、いのいちさんは襖の引き手に触れた。けれど何も起こらない。
ややおいて 小さく唸る。

「私には開けられないようだ。ちょっと来てくれ」

いのいちさんはわたしを襖の前に手招きした。
この奥にはいったい何があるんだろう。こわいものでもあるのかなと邪推して、そんなことないとすぐに気づく。だってここは、カカシ先生の頭の中だもん。わたしを脅かしたりするものなんてあるわけない。
そう思いながら引き手に触れると、何の抵抗もなく。

「開いた……」

「拒まれないか。どうやら、その先に行けるのはキミだけらしい」

「この先にカカシ先生が?」

「その可能性が高そうだ。だが、“艮”は丑寅、つまり鬼門だ。死者と鬼の出る方角とも言われてる」

「死者と鬼……」

「何もないというわけにはいかないだろう」

カカシ先生に接触したらやるべきことはふたつあると、いのいちさんは言った。
ひとつは、先生をその場で苦しめたりしている“何か”の脅威から遠ざけること。
ふたつめは、先生を眠りにつかせること。
そうすることで現実のカカシ先生が目を覚ますらしい。


「オレはここで待機している。遂行したらすぐここまで引き返してくれ。危険を感じてもだ。いいな?」

「はい!」

生唾を飲み込んで、おそるおそる手を伸ばす。
わたしはゆっくりと、真っ暗やみの向こうへ、先生のいる場所へと足を踏み入れた。

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