時計の針が9時を回った頃。またしても居酒屋には似つかわしくない客がやってきた。
「よくも男の純情を踏みにじってくれたなァ!女優様がどれほど偉いかしらねーが!オレはぜったい、ゆるさねえぞォ!」
瀟洒な店内で、ナルトの大声がやや場違いに響く。ぞんざいな扱いをされたことが余程気に食わなかったのか、鼻の穴を膨らませて憤慨している様子だ。
雪絵はといえば我関せずという顔で 首飾りを定位置に戻していたが、
「女優が?偉い?」
とっさの一言が彼女の琴線に触れ 酒の入った顔でナルトを睨んだ。
「バッカみたい。女優なんて最低の仕事。最低の人間がやる仕事よ。人の書いたシナリオ通りに嘘ばっかりの人生を演じて ほんとバカみたい」
皆寄ってたかって何が面白いのだろう。自信に満ち溢れた眼差しで敵と戦ったって、可憐な笑顔で人々を虜にしたって、所詮物語は空想上の出来事ではないか。とんだ茶番だと、彼女は高らかに そして自嘲ぎみに笑っている。
「ねーちゃん酔ってんのか?」
「うるさいな!とっとと消えて!」
辛辣に言い放った直後、店の戸が今一度大きく開き、雪絵のマネージャー・浅間三太夫が息を切らしてバーの奥へと走ってやって来た。彼に続くようにして雇われ下忍たちも次々に店へ踏み込んでくる。
「雪絵様!雪の国行きの船がもうじき出航します!さあ 急ぎませんと」
「もういいの。風雲姫は降りるわ」
「降りる!?」
雪絵のあっさりとした物言いに、シズクは奈落の底に突き落とされたような顔をする。
「そんなのぜったいダメです!!」
「相変わらずうるさいガキね」
「何を言っているのですか!」
「いいじゃないの。よくあるじゃない?ほら、続編になったら主演俳優が変わったり 監督が変わったり」
「黙らっしゃい!」
おどけた調子でお猪口を揺らす雪絵に、温厚な三太夫も血相を変えた。
「この役は、この風雲姫の役を雪絵様をおいて他におられません!それにここで降りてしまったら この業界で仕事など出来なくなってしまいます!」
「いいじゃない 別に」
「雪絵様!」
雪絵はマネージャーの建言に聞く耳を貸さず、頑として駄々をこねていた。
意思の強い彼女のこと。誰がなんと言おうとカウンター席から一歩も動かないだろう。このままでは映画の撮影に支障を来すだけでなく、雇われた第7班もとばっちりを食らってしまう。ただでさえ木ノ葉崩し以後の忙しい時世だ。任務がだらだらと長引くのは喜ばしいことではない。
困り果てた一行たちを背後から眺め、やれやれと溜め息をついてカカシがようやく一歩進み出た。
左手を 斜めの額宛てに添えながら、一言。
「仕方ないですねぇ」
そして 暗転。
* * *
空は抜けるような濃い青に、吹き抜ける潮風。さざなみも穏やかで心地いい。
絶好の撮影日和に恵まれて、“風雲姫の冒険”のクルーは朝から甲板を忙しなく駆け回っていた。
カメラだ セットだ 皆気合いの入った顔である。強行手段のもと連行された雪絵を除いては。
最初こそ不満を口々に叫んでいたものの、船の上とあっては流石に脱走を思い留まったらしい。風雲姫の衣装に身を包んだ雪絵の、いかにも不機嫌そうに結ばれた唇に アシスタントは困り顔で紅を施す。
「あのねーちゃん オレ苦手だってばよ」
余計な茶々を入れまいと決めたのか、ナルトは今日は遠巻きに雪絵を眺めていた。どうやら昨日の一件で相当懲りたらしい。
「何言ってんだナルト。どんなことがあってもあの人を守り抜くんだ。これは重要な任務だぞ」
「任務?」ナルトは目を丸くしてカカシを見る。
「そ。Aランク任務だ」
「Aランク任務ぅ?」
“風雲姫の大冒険”栄えある完結編の撮影のため雪の国へ赴く富士風雪絵に同行すること。それが今回の第7班の任務である。
「たかが映画女優の護衛がそんなに難しいとは思えないがな」
「そんなことないぞ サスケ。有名人は色々と狙われるもんだ。しかも相手を特定しづらい。くれぐれも油断するな」
「忠告ならオレじゃなくあいつに言ったらどうだ」
サスケが一瞥した先にいるのは、ナルトでもサクラでもなく、撮影班に紛れてグラスの乗ったトレイを運ぶシズクだった。
「雪絵様!アイスコーヒーお持ちしました!」
「あー まだ気持ち悪い」
「二日酔いでしょうか、船酔いでしょうか?どちらも良く効くお薬がありますよ!」
「二日酔い。あと肩揉んで」
「はい只今っ」
熱狂的なファンをあしらうことに疲れた雪絵は、それの新たな活用法を見出だしたのだった。あれやこれやと突き付けられる注文もちっとも苦ではないらしく、シズクは笑顔で引き受けている。
「シズクいいようにパシられてるってばよ」
「懲りない奴だな」
「やれやれ。Aランクだし同行させた方がいいかと思ったんだけどねえ、こりゃ失敗だったかな」
「連れて来なかったら来なかったで シズク本気で怒るわよ、きっと」
常の任務では努めて穏やかにしている彼女も、やはりまだ子供なのだとカカシは思い知る。
「でもさでもさ シズクが任務であんなうれしそーなカオしてんの、初めて見たってばよ」
そう言われてみれば。雪絵の周りでうろちょろするシズクの顔は 忍者のそれではないが、確かに嬉しそうに綻んでいた。三代目火影が逝去し、木ノ葉の里ではしばらく慌ただしい日々が続いていたのだ。
「ま、たまにはこういうのもいいか」と カカシは朗らかな笑みを浮かべた。
*
「よーし 気合い入れてけよ!」
監督のマキノが声を張り上げると、甲板には水を打ったように静寂が訪れた。
「ハイ!シーン23 カット6 テイク1 アクション!!」
カン!
「獅子丸……」
くもりなく透き通った瞳が振り返った瞬間 甲板の空気が変わった。
「獅子丸!しっかりして!」
風雲姫は倒れた仲間にすかさずすがり付き、大きな体躯の袖を握る。
「姫様…お役に 立てず…申し訳ありません…」
「何を言うのです!あなたのお陰で、私達はどれ程勇気づけられたことでしょう!」
「一緒に…虹の向こうを…見たかった…」
残り僅かの命 獅子丸は夢を語る。夢半ばで果たせなかった願いを。
「獅子丸…獅子丸!!」
瞼を伏せた仲間に 風雲姫の表情が次第に移り変わっていく。動悸 息遣い 指先と唇の震え。誰がどう見てもこれを芝居とは思うまい。あたかも物語の世界に引き込まれたような心地がして、生唾を飲み込むのさえためらわれた。
「すごい演技」
「現実の姉ちゃんとは全然違うってばよ」
「いいえ。あれが雪絵様です。一旦カメラが回り始めたら、あの方の右に出る者はおりません!」
見守りながら、マネージャーの三太夫は誇らしげに語る。雪絵は今 女優としての才を以てして、その場にいる全ての者の心を鷲掴みにしていた――――はずだった。
「ハイ止めて〜」
徐にカメラを止めさせては マネージャーを呼びつける雪絵。
「三太夫、涙持ってきて 涙!」
落とされた数滴の目薬が彼女の瞳に膜を張ると、雪絵は再び“風雲姫”に変化した。
「ったく…オイ 寄りで抜くぞ」
「ハイ…」
アクション!
「獅子丸〜!!!」
再び回り出したカメラ。しかし 風雲姫の悲痛な叫びが甲板に木霊しても、ナルトたちはすっかり拍子抜けしてしまう。この撮影秘話は出来ることなら知らずにいたかったと。
「うう…獅子丸さん…っ」
唯一この悲しい感動のシーンに涙を誘われたのは シズクだけだった。