麗らかな午後。
あやめが咲き乱れる川辺では、白馬が澄んだ水に頭を寄せていた。黒い騎馬隊の追及から逃れるためひたすら駆け さぞ疲れたのろう。
その傍らで膝を抱える、威風凛然の姫君―――もとい火の国の女優・富士風雪絵。
その美貌相まって、物憂げな横顔ですら目を見張るほどに美しい。
「お怪我はありませんか 姫」
揺れる波紋を上の空で眺めていた雪絵へと ある少年が声をかけた。
仰々しい物言いは不馴れなようで、「なんちゃってなァ!ねーちゃん、本物の風雲姫だよなァ?」すぐに口調はくだけた。お調子者の彼に対し、他方 シズクはふるふると肩を震わせている。
「夢みたい」
銀幕の彼方の憧れの人物が 今 自分の目の前で佇んでいる。シズクはかろうじて意識かあるか、感激のあまりちょっとでも気を抜けば卒倒してしまいそうだ。
「風雲姫様が目の前にいる!」
何だというのだ この子供たちは。服装や額宛てを見る限り、木ノ葉隠れの里の忍者だろうか。ロケ中に逃走を図り三太夫の追っ手を振り切ったというのに、雪絵はまだ追われていた。
ただのしつこいファンか それとも甲斐性のマネージャーが雇った忍か?
いずれにせよ 雪絵には邪魔な存在である。
「オレさ オレさ!ねーちゃんの映画見て、すっげー感動したってばよ!」
「わたしもです!」
その場で立ち上がった雪絵の 疎ましげな表情など知りもせず、ナルトとシズクはのべつ幕なしに口を動かす。「涙が止まらなかったってばよ」「風雲姫様のお言葉に何度勇気をもらったことか!」放っておいたそのまま何時間と語り明かすのではないだろうか。それは好都合。
馬の背に跨がった雪絵が手綱を引くと、白馬はナルトの正面へ駆け出した。慌てて避けた拍子によろけ、「あ、あ、あ!」ナルトは川面に盛大にダイブした。
軽快な蹄の音や、馬の背で風に波打つ黒髪。横顔のライン。雪絵だけをフレームで切り取れば躍動感溢れるワンシーンだが、これを彼らの出会いの場面と呼ぶには 徹底無視というドラマチックに程遠い雰囲気である。
「ねーちゃんを見てたらさァ、オレもなんだかやる気が出てきたぜ!」
川に落下したはずの少年が 気づけば並走を始めたのだから、耳を疑うのも無理はない。引き離そうと馬上鞭を打つも、声はいっそう距離を縮めた。
「ぜったいあきらめねェ。オレも頑張って、ぜったい火影になるってな。ああ 火影ってのは、ウチの木ノ葉の里で一番偉い忍者のことなんだけどよォ!」
雪絵が微かに首を逸らせば、金髪の少年が自分の後ろに相乗りしている。
「ねーちゃん、手綱捌きも一流だな。さすが火の国一の女優!オレが見込んだだけのことはあるってもんだァ!」
「あっナルトずるい!」
同じく並走していた少女もまた馬の背に飛び乗った。
「…」
もう何も言うまい。黙りを決め込んだ雪絵の手のうちで、自分の背後のガキ二人を振り落とさんばかりに何度となく鞭が鳴った。白馬は再び町に入ったところで既に全速力。片袖が盛大に破けてても手綱を緩めない雪絵に、二人も冷や汗をかく。
「オイねーちゃん!スピード出しすぎだって!」
「雪絵さんっ速度を落とさないと危険です!」
杞憂はすぐに現実となり、お構い無しに往来を突進する風雲姫とその一行は 白馬の鬣越しに道を横切るこどもたちの姿を捉えた。
「あぶねェ!」
言わんこっちゃない。
馬は前足を空へ向け大きくいななき、急停止。馬の背から投げ出された三人。大事なかったものの、ナルトはしこたま尻を打ち付けてしまった。
「イテテ!」
「…ああっ 風雲姫だ!」
目を丸くしていたこどもたちは、やがて雪絵に気づくと顔を輝かせて彼女を取り囲んだ。
「風雲姫だ!」
「本物だ!」
「あたしは風雲姫なんかじゃないわ」
「知ってるよ!女優の富士風雪絵でしょ?あたしファンなの〜!」
こどもたちは皆カバンからノートを取り出し、サインちょうだいと繰り返しながら雪絵へ迫る。
「あたしはサインなんかしないの」
「そんなこといわないで、お願い〜!」
茫然としていた青い瞳は徐々に冷たいものに変わり、眉もつり上がっていく。
「いい加減にして!」
雪絵はとうとう声を張り上げた。
「あたしのサインなんか貰って何が面白いの?どうせどっか片隅に置き忘れられて 埃でもかぶってるのが関の山でしょ?何の役にも立たない下らないものじゃない」
バカみたい。
捨て台詞を吐いて走りだした背中を、町の大人たちは声も潜めず陰口を叩き始めた。
「やーね 気取っちゃって」
「なんか幻滅」
「ちょっと売れてるからって天狗になってるんじゃねえの」
銀幕の姫君は聡明で、声をあげる者には誰彼なく優しく手を差し伸べる君子。ところがカメラを向けられていない今の富士風雪絵は、高飛車という言葉がぴったりの強気な女優であった。スクリーンから笑顔を振り撒く彼女の意外な一面に、ナルトとシズクは言葉を失い 唖然として見つめる。
そんな二人のもとに、空から式が舞い降りた。
* * *
今宵は満月。
ストーカー二人を都合良くあしらい、雪絵は人気のない小道のちいさなバーに入り そのままカウンターへ座った。
店内に客もおらず こじんまりとしていて丁度良い。そう思っていた矢先、帽子の男が一人やってきて 流れるように奥のテーブルへ向かった。
そしてさらに間を置かず、また客だ。ただし今度はバーテンダーがぎょっと顔をしかめたている。
「わたしのことはおかまいなく。そこの方の連れですので」
まさかと思い雪絵も首だけそらす。案の定、今日散々追いかけ回してきた忍だった。二人のうち片割れの少女のほうだ。未成年のこどものくせに堂々とバーを闊歩してくる様といい、幼くとも忍者とあって、一般人の雪絵が簡単に足を撒けるわけではないらしい。
「漸く静かになったと思ってたのに」
「まあまあ」
しかめ面でお猪口を空にした雪絵の隣に、シズクは腰かけた。
「あの金髪をほっといてきていいわけ」
「ナルトも忍ですから。今は雪絵さんのお供をさせてください」
富士風雪絵を護衛せよ カカシから寄越された任務連絡を受け取った手前、シズクは木材場に埋もれた仲間を放置してでも雪絵を追わなければならなかったのだ。もっともナルトなら、あれくらい自分でなんとかするだろう。
「三太夫がアンタたちを雇ったってわけね」
「はい。アナタを次の撮影地 雪の国へお送りすることがわたしたちの任務です」
「冗談じゃないわ。誰が雪の国になんか――」
悪態をつこうとすると、隣からは聞こえた グス、という鼻を啜る音で雪絵は閉口した。見れば、シズクが顔を真っ赤にして 徐に涙を流し始めていたのだ。
「な、なんで泣くのよ」
「失礼しました……憧れの雪絵さんとこうして席を並べることができるなんて、嬉しくてつい!!」
「はあ?」
これが演技ならなんてひどい大根役者か。しかしこれは芝居ではないのだ。
女優人生を振り返れば、自分に会ったときに初対面の相手が感極まって泣き出した、という経験ははじめてではない。けれど、シズクの嬉し泣きは、類を見ないオーバーリアクションだった。忍には涙を流してはいけない、という掟があると聞いたことがあったが、人前で堂々と涙なんて流して、この子本当に忍なのかしら。雪絵は理解に苦しむ。
「あ お酒おつぎします!」
「結構よ」
こんな子供に守られる?
馬鹿馬鹿しい。
「なんなのよ もう」
またとない極上の幸せを噛み締めているかのようなシズクに、雪絵は呆れ果て 無言で手酌した。