▼ハグ・チョコレート
甘い匂いを放つかけらをパクリ、たちまち口いっぱいに広がる幸福感に、自然と頬は緩む。
ああ、とろんと蕩けるみたい。しあわせ。
――――しかしすぐに、シズクは仁王立ちのままがっくりと肩を落とした。
「あ、甘すぎる」
髪は高く結わえ、白いエプロン紐をぐるりと2重巻きにしたシズクは、散乱した材料に囲まれて深く溜め息をついていた。
ここはキッチンという名の戦場。事の発端は、二月も半ばの本日にあった。
≪ちょっと、シズク!大ニュース!待機所でシカマルがバレンタインチョコもらってるわよー!≫
執務や任務でてんてこまいのシズクの元に、心転身の使い手である親友からとある一報があったのだ。
「シカマルが?」
≪そーそー!かわいい後輩に!≫
女の子が好きな男の子にチョコを渡し、気持ちを伝える大事な日。今日がその 乙女たちの一大行事であること位、いくら疎いシズクだって知っている。
「シカマルが誰からチョコを貰おうと、私が口挟むことじゃないよ」
≪アレ、反応薄いわね≫
存外あっさりとしたシズクの返事に、≪それ、恋人としての余裕〜?≫笑っていのは茶化していた。
元“イケてねー派”のシカマルも、今や皆が実力を認めるエリート中忍だ。容姿だって知的で端正だし、あれでチョコのひとつもない方がおかしいだろう。
焦りこそあれど、いくら彼女だからといって他の女の子の想いを邪魔する権利はないとシズクも礼儀を弁えていたのだ。
ちなみにその時点でシズクが家に用意していたのはチョコではなく、お決まりの鯖味噌と和菓子である。
≪シカマル先輩のお口に合うようほろ苦いチョコにチャレンジしました、だってさ≫
「へえ〜…」
あっちは甘いものが好きなわけじゃないしいつも通りで済ませりゃいいや。ところがどっこい、シズクのちょっとした油断と過信が通用するほど、この仁義なき戦いは甘いものではなかった。
≪アンタの彼氏、苦手な割にはまんざらでもない顔でおいしそーに食べてますけど≫
「なっ、なんですと!?」
と、こんな塩梅で今日は年に一度の恋の下剋上。
シズクがボケ〜っと惚けていた一方で、恋人の座が埋まっていようと構わず押して押して押しまくる女共のシビアな戦いは繰り広げられていたのだ。
のんびりしてはいられない。
帰りにあわてて材料をカゴいっぱいに買い込んでみたはいいけれど、いざ作りはじめるとなかなか難しい。急ごしらえのチョコを机の奥に押しやり、シズクはテーブルに突っ伏した。
「う〜ん、うまくいかないなぁ…」
定番のトリュフ。
濃厚なガトーショコラ。
ガナッシュや苦めのブラウニーもいい。いっそ大人めのラムボールのほうが舌に合うのかな。
チョコレートより煎餅と緑茶派の彼を考えて特別な用意をしなかった。けれど、くのいち達は相手の好みを徹底調査しあくなきまでに努力を重ねている。好きなひとの喜ぶ顔が、少しでも見たくて。
「ちゃんと研究しときゃ良かった…」
「何が」
「だから甘さ控えめのチョコ…って、うわ!シカマル!?」
不意打ち。
声に驚いてシズクが顔をあげるとなんと当の本人がテーブルの向かいで頬杖をついてるではないか。
「シカマル、7時に来てって言ったのに!」
「時計見ろよ。もう7時だぜ」
シカマルが指さす方向では、確かに壁の時計が約束通りの時間を示している。これはもう全面降伏としかいいようがない。
「うう…間に合わなかったー…」
あえなく撃沈したシズクの向こうで、シカマルは正面に置かれた皿にじっと目をやる。
ココアパウダーが満遍なくまぶされた小さな四角いかけらが、ラッピングも無しでいくつも並んでいた。彼女に言わせれば充分ではないらしい、それが。
項垂れたまま顔を見せないシズクをよそに、仏頂面のシカマルは端のほうの欠片をひょいと指で摘まんで、黙って口に運んだ。
「甘えな、こりゃ」
「…ごめん」
「別に食えなくねェけどよ」
「シカマルが好きそうなほろ苦いビター、全然うまく作れなくてさ」
アカデミー時代のサスケレベルで沢山というわけではないが、シカマルに手渡される色とりどりの箱の数は年々右肩あがりの傾向にある。
とはいえシカマルが欲しいのは、昔から変わらず、味の良し悪しに関係なく特定のたった一つだけ。
そもそも手作りチョコなど柄じゃないシズクに対し、淡い期待を抱かなくなっていたシカマルにとって、目の前で繰り広げられている菓子作りは新鮮極まりないものだった。一体どういう弾みで転換したのだろうか。
もうひとつ口に放り、ぺろりと指を舐める。咀嚼も何も、とことん甘すぎるチョコレートだ。
しかも 上手く作れないなどとやけにしおらしく呟くものだから、にやける口元を堪えられない。
向こうがテーブルに顔を押し付けていて良かったとシカマルは内心ひとりごちた。
「たしかにお前好みの味っつったら納得」
「いいよう無理して食べなくて。胸焼けしちゃうよ」
「でも残りどうすんだよ?」
「義理チョコにする。ナルトとかカカシ先生に、」
「却下」マスクに隠れて鼻の下を伸ばす某上忍を想像するのは容易い。
「オレあてに作ったんだろ」
「そうだけど…」
「そんなら全部くれよ」
シズクはそこでようやく顔をあげた。テーブルに押し付けていたからか、別の理由か、鼻から頬にかけて赤い。
「…まあ、嫌っつーんなら別のモンでもいーんだけどよ」
「別のものって、鯖味噌と大福くらいしかないよ」
「そういう意味じゃねェよ。知ってっか?チョコレートは、エンドルフィンってのの分泌を促して幸福感を高めるらしいぜ」
「それが?」
「それがハグの効能に共通していえる」
これで分からない訳はないだろう。証拠に、シズクの頬の赤みが瞬く間に全体に広がった。
チョコレートが贈れないなら、代わりに同等のものを差し出すよう要求されているということを。
立ち上がって近づいてきたシズクから、おずおずと回される腕。チョコレート以上に誘惑を誘う首筋。目眩を起こさずにはいられない甘さに顔を寄せた。
バレンタインは乙女たちが一世一代の大勝負に挑む日。しかし男だてら、ただ貰うのを待っているだけでは駄目だ。
好機を都合良く生かすのも戦略家の手腕である。
立ち上る満足感に、シカマルはしたり顔で目を閉じた。
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