▼逢瀬は月の浦

頬をうつ、これの名前を知ってる。

風。

撫でるようにやわらかく。さわさわと擦れ合う草木音とあかるい瞼の裏。眩しい。あったけェ。安心する。
瞳をひらけと頭のなかで声がする。
ほんの少しためらって、生まれ落ちるようにはじめて目を開けた。


「シカマル」

弾かれるように身を起こした。
人なつこい顔。小さい肩と手。長い髪は寝癖でくるくるとカーブを描いて。
気がつくと手を伸ばしてた。たぶん乱暴に引き寄せてただろうな。腕の中に閉じ込めるように。服越しに伝わる体温と肩の感触と確かな温もり。ふわりと届くひなたの匂い。
チャクラの霊体でも戦いで傷ついた姿でもなく、いつもの姿のお前だった。

すぐにオレの背中にも両手が回された。ゆっくりと手のひらが上下に撫でる、まるで赤ん坊をあやす母親のような所作だ。顔見えねぇけど目ェ丸くして絶対に苦笑いしてんだろ、お前はよ。んで聞くんだろ。どうしたの、ってよ。
幻なんかじゃねえ。ウソじゃねェんだよな。なあ、お前たしかにここに居んだよな。

「シカマル 怖い夢でも見てたの?」

ああすげー怖え夢だった。アスマが暁にやられて、オヤジも、お前も、戦争で。

「本当に辛い夢だったんだね」

オレはたしかに戦場にいたはずだった。
だがここはオレん家の縁側。陽向に包まれる、古くなった木造の柱。石畳に続く庭には澄んだ緑。笑い声を包む。そういや、オレたちここではじめて話したんだよな。お前の口から好きって聞いたのもここだった。

向こうの濡れ縁でオヤジとアスマが将棋をさしてる。すぐ脇に腰掛けて、母ちゃんと紅先生が、笑いながらお茶してて。紅先生の膝には、元気に生まれた女の子の赤ん坊が。

「心配しないで。私たち、ずっと里にいるじゃない」

ずっといんのか、ここに…


なのに、なんで涙が止まらねェ。
やっと叶ったってのにどうして、胸がこんな痛えんだ。


「ねぇどうして泣いてるの?」

分かってる。幻だ。
お前は死んだ。
これはマダラが作り出した幻術の世界で、今そばにいんのは、オレが作り出したシズクだ。ここならお前が今そばに居て、こうして確かに触れられて、きっと永遠にそれが叶う。アスマもオヤジも生きてる。アスマの一家が幸せに暮らしていける。オレの家族もまた全員そろって家に帰れる。母ちゃんを泣かせることもねェ。いのん家も、他の家も全部、そうだ。

けど、それが本当じゃねェことも分かってんだ。

オレは怖ェよ。目が覚めたらお前は冷たい塊になってんだろ。お前の死にもオヤジの死にも向き合わなきゃならねー。最初はどうしようもなく辛くて、けどその苦しみもだんだん忘れていっちまうのが何より怖ェんだよ。お前がいないこと、いつか乗り越えて、何も感じなくなっちまうんじゃねェかってよ。
なあそうだろ?乗り越えなきゃならねえ日がくるんだろ。

こんな幻の世界で忍としての体面もくそもないけどよ、流石に男泣きなんて女の前じゃ見せられねー。シズクの肩に頭を押し付け、せめても見られないようにしたかった。たがシズクはオレの両頬を包むように触れ、そっと顔をあげさせる。角度が転じて目尻から一筋、涙の雫がこぼれ落ちた。

「笑って」

幸せそうで、どこか悲しみを内包してる微笑みだった。お前、都合いい幻だってのに。シズクは瞳を閉じて、オレの額にそっと自分の額を合わせる。

「私の幸せはシカマルなんだよ。シカマルが笑っててくれたら、私はそれでいい。シカマルの笑顔がみたい」

これがこの幻の世界での、いってらっしゃいの合図なのだと気付いて。

ぽっかり開いた向こうの穴から、また風が吹いてくる。これは風穴だ。知ってる。かつて一度味わった、あのタバコの煙と共によみがえる喪失感、からっぽだ。
そんでも、大切な人間が死んだからといって手放すことはできねェ。いの、チョウジ、あいつらはまだ生きてる。同期の連中も。先輩も仲間も。里にはかあちゃんも、アスマに託された小せえ赤ん坊も。手放せるわけがねェ。
この体のいい夢から帰らねーと、じゃないとオレは笑えねェ。
引き返さなきゃいけねェんだ。
オレは生きてんだからよ。

「……もういかねーと」

「うん」

「すまねェ」

「うん」

すまねェ 永遠に一緒にいれなくて。
頭ん中の言葉がここじゃだだ漏れらしいな。シズクはおかしそうに微笑んで、また言う。

「ちがう。ずっと一緒だよ。昔も今も、これかも」

このシズクが幻かどうか、どうでも良くなってきた。偽物だし本物だ。そのどちらでも、シズクであることに変わりねェ。
全部筒抜けになっちまってんなら、黙ってても同じだよな。ならせめてちゃんと伝えとくか。
今まで照れ臭くて、絶対言えなかったこと。

「選べなくてすまねェ」

たとえここで生きれなくても、オレはただ昔も今も、


「愛してんだよ、」

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