▼最愛
木ノ葉病院の片隅。時間は真夜中をとうに過ぎているのだろう、遠くから、雨の音だけがする。
薄青い暗闇のなかで、窓の外を眺めるシカマルの、頬の輪郭が月明かりに照らされていた。
「眠らないの」
「カカシ先生こそ、帰って寝た方がいいんじゃねぇすか」
声を掛けて窓際へ歩み寄るオレを見て、シカマルが眉をひそめて言う。
「いや、なんだか眠りが浅くてね」
「不眠症すか」
「お前と一緒だよ」
懐かしいな。前もこんな風に、目覚めないシズクにふたりして付き添っていたことがあったな。
オレたちは、帰還したシズクのもうひとつの変化に気づいた。彼女の右手の親指に薄紫色の指輪がはめてあったのだ。
“零”の字入りのチャクラ石。暁の忍たちが、その所属を証明づけるように身につけていたものと違わぬ品だった。どういうわけかその指輪は、いくら力を込めてもシズクの指から抜けなかった。
まるで別の人間に乗っ取られでもしたかのような、そんな空虚さがぬぐえない。
沈黙が続き、シカマルが重い口を開く。
どうやったら彼女が“回復”するか、持ち前の頭脳をフル回転させてるに違いない。
「アイツが死ぬわけねーっていう確信だけはあったんスけど なんつうか……」
「まあね。お前の気持ちは判らんでもないよ。ただな、命が助かったんだし、お前もちょっとくらい安心してもいいんじゃない」
幾度となく死線を潜ってきた自来也様が戻らなかった。それを考えるとシズクの帰還は奇跡だ。自来也様の采配が、オレやシカマル、他のやつらをどれだけ救ったか計り知れない。
「……まだ解決してねーっすよ」
自責の念。シズクは戦いの悲しみに身も心も食い尽くされているかもしれない。彼女が苦しんでると想像すればオレたちも胸が痛い。
「たとえシズクが今後どうなろうと俺達は何も変わらない。特にお前は離れないんでしょ。あいつの隣から」
シカマルは目を見開き、オレの顔を見た。
そして少しはにかんだ。
「さすがカカシ先生はさらっとすげーこと言うよな……」
「何よその言い草は。ま、オレもあいつの傍から離れることはないけどね」
「いや、そこは離れといて欲しいんすけど……」
*
シカマルが自宅へ帰った後、オレは隔離部屋に入り込んだ。
バレたら五代目に殺されるな。そう思いながら静寂の病室の扉を閉め、椅子を引っ張ってきて彼女の近くに腰掛ける。
窓と壁が反射して、シズクの顔は青白く光っていた。
“暁”の首領のアジトとして自来也様が赴いた地は雨隠れ。
一年と少し前になるだろうか、中忍試験開催の告知状を手に オレは雨隠れに訪れた。里長である“山椒魚の半蔵”の周囲は厳重な警戒が敷かれており、その顔を拝むことすら出来なかった。
あの頃には既に、雨隠れに異変は起きていたのだろうか。
手の甲で頬に触れる。
柔らかくて、すこし、ほんのすこしひやりとして、不安に胸の奥がざわつく。
三年前、イタチの瞳術をくらって昏睡状態だったオレの傍らにいたお前は、こんな気持ちだったのかな。いつも倒れて寝込むのはオレのほう。
でも今日は立場が逆転。
今のシズクは虚ろな目を開けたまま、何も見ていない脱け殻だ。
ひとたび触れただけでこんなに苦しい。身を乗り出して、彼女のやわらかい髪を一房手にすくいとる。するりと指をぬけていくそれに、願掛けのように唇を落とした。
オレは自分のてのひらじゃなにも守れなくて。せめて支えてやることだけでもと、そう何度も繰り返して今まで生きてきた。
オレを愛さなくていい。
他の誰かを愛していていいから、いつものようにまた笑って。
お前は幸せになってほしい。
蝶の僅かなはばたきでも、それはどこかの荒野で竜巻と成り得る。自来也様という英雄を失ったこの里がまだどうなるか、一連の出来事がこれからどのような影響を及ぼすかはまだ誰にも判らない。
これからのことは誰も知らない。
ただ、明日もその次もこの温度が下がらないように、少しでも温かくなるようにと祈った。
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