▼青空の涙
あの事件の日から、数えて一週間。シズクが鬼婆と契約を取り交わしているちょうどその頃、縁側でぼーっと日暮れを見ていたシカマルは、香ってきた味噌汁のにおいに気づいて食卓に向かった。
「父ちゃん遅くなるって。先に食べてましょ シカマル」
シカマルの父シカクは上忍なので、奈良家は時折ヨシノとシカマルのふたりで夕食をとることがしばしばあった。
いつもより静かな食卓で、飯を口に含みながら、シカマルが呟く。
「…あいつ どうしてるかな」
あの日以来、シカマルは何回か、母にこう問いかけていた。
離れに住み 毎日のように顔を覗かせてた月浦シズクは、先週を境に奈良家に姿を見せなくなった。
そして、シズクの育ての親はまるで風のようにふっと消えて“いなくなった”。
齢六歳のシカマルだが、ここ一週間の両親のおかしな様子をうかがって障子に耳をそばたてるような、聡いこどもである。シズクの育ての親、由楽が“死んだ”のだと聞き知って以来、昼寝を満喫できなくなった。
死ぬということ。いなくなること。この世のものではなくなること。
父に連れられて行った奈良家の森で、老いた鹿に必ず訪れる出来事。見開いた目に、動かなくなって固い体。手のひらに乗るちいさな虫にも訪れる、あの、死。あれが身近な人間にも起こるという事実を受け止めるには、シカマルは聡くともまだ幼かった。
奈良家の卓上に置かれた 食べるラー油。「これいま流行ってるんですよ〜」と 奈良家の家族が手を伸ばさなそうな調味料を買ってきて勝手に置いていった由楽に、今となってはそれを返品することもないのだと、ぼんやり思った。
「シカマル」
昨日までは返答を濁していた母ヨシノが、しかし今日は やわらかな物言いで息子に告げる。
「シズクのことだけど うちで暮らすのはどうかなって父ちゃんと話してたのよ」
「うちで」
「アンタどう思う?」
「…べつに いいんじゃねえの」
「そう。アンタがいいなら、いいわね。明日にでもシズクに会いに行って相談してみるわね」
「…由楽のねえちゃんはもう一緒じゃねえんだな」
シカマルの呟きに、ヨシノは僅かに間をおいて、頷いた。
なんで、しぬんだ?なにがあったんだ?聞きたいことは山のようにあっても、母の涙ぐんだ目を見てしまっては、もはやシカマルは何も言えなかった。
あいつがウチに住む。オレや父ちゃんや母ちゃんと一緒に。とにかくこれからシズクが来ることだけ、わかっていれば いいと。
だが、明日と言わず再会は急にやってきた。
奈良家のチャイムが鳴らしたのは シズク本人だったのだ。
「おばさま」
雨に降られたのか 全身濡れ鼠で奈良家の戸口に立つシズク。
驚くヨシノの エプロンの裾を強く握り、シズクは頭を下げた。
「ここにしばらく住まわせてください」
「え……?」
「わたし、医療忍者になりたい。アカデミーに入って、いっぱい勉強して、必ずなる。だからそれまで、お願いします」
「シズク?どうしたの急に、医療忍者だなんて」
「がんばるから だか…ら………」
「ちょっと……シズク!」
疲れ果てたのか 見知った顔を前にようやく安堵したのか。 シズクは懇願するなり、ヨシノのエプロンに身を埋めるようにして崩れた。
この一週間ろくに寝食をしていなかったシズクは、そうしてふかいふかい眠りにつき、雨続きの一週間が終わりを告げたのだった。
*
雲一つない青空。今日は風がちょうどいい。
シカマルは部屋の窓を出て、トタン屋根組んだ特製の寝台にねそべっていた。
「シカマル!」
高い声に意識を引き戻されてシカマルが目を開けると、そこには 屋根に移ってくるシズクの姿があった。
「お前、やっと起きたのかよ」
「うん」
仰向けの体を起こすと、シズクはシカマルの隣までやって来て、何気なく すとんと座る。
「こうしてんの久しぶりだな」
「……そうだね」
それきり二人は屋根から空を眺め続けた。ぼんやりと、いつまでも。常は喧しいシズクも、ずっと静かだった。シカマルもまた黙っておく。
「あのね」
日が傾き出した時分に、シズクはやっと口を開いた。
「わたし、シカマルにたくさん、言うことがあるの」
「なんだよ?」
「わたしね、実は……ケガしてもすぐキズが治っちゃうんだ」
「知ってっけど」
「えっ」
「三ヶ月前におまえ、ここから落っこちただろ。この高さで頭から落ちたのに、たんこぶひとつできてねえし」
「シカマル よく見てるね」
「バッカ!フツー気づくっての。めんどくせー」
天然っつーか、まぬけ。勿体ぶったわりに随分な内容で、シカマルも内心ほっとしていた。
「それとね。わたしもアカデミーに入ることにしたんだ」
奈良一族家長の長男たるシカマルは、選択するまでもなくアカデミーへの入学を決めていたが、シズクはその類いではない。
「医療忍者になりたいの。そのためにアカデミーにもいく」
「……そーか」
「わたし、ちゃんとつよくなる。だってもう、守ってくれる…由楽さんは……」
今までせき止めてきた思いが一気に溢れてきたのか、口を噤んだ途端に、目からおおきな涙がぼろりと零れ始める。シズクは掌で必死に拭うが、掬いきれないものが頬を伝った。
由楽が死んでから、シズクは誰の前でもこうなってはいなかった。だから、おそらくこれが、さいしょに人に見せる涙だった。
「ごめ……」
「いーから思いっきり泣けって」
「ふえ…っく、うわああん、由楽さぁん…!!」
シズクがいっそう大きな声でわんわん泣き出し、由楽の名前を何度も呼ぶ。やっと泣いたシズクの手をぎこちなく握りながら、シカマルはだまりこくってその側で嗚咽を聞いていた。
「わたし…がんばるから……!由楽さんとの、約束、守るからっ…!!」
熱をもったような手が、所在なげにシカマルの指をぎゅっと握り返してくる。そのあつさに、シカマルの胸の辺りが痛んだ。
昔からルールを決めていた。どうしてシズクと由楽の髪の色が違うのか。どうして父親がいないのか。どうして知らないやつに狙われるのか。それらをけっして、本人に聞かないというルール。そして、シズクが寝込んでいるあいだに、シカマルはあたらしい項目を追加した。
由楽との約束とは何なのか。
たぶん、あいつが語っても泣かなくなるくらい先まで、問わないまま続くのだ。
お前が忍になるなら と
そのときシカマルも、ひっそり誓ったことがある。
*
そうして迎えた忍者アカデミーの入学式は、だれか涙雨などなかったかのように晴れわたり 桜の舞う空のもと開催された。
シカマルとシズクは他のこどもたちと列に加わり、シカクとヨシノは揃って保護者として参列した。
「大いに励むように」
三代目の餞の言葉を聞きながら、シズクは会うことのなくなったひとの顔を思い浮かべた。
亡くなった由楽。
自分の前から姿を消したカカシ。
ふたりを瞼の裏に焼き付けながら、涙は流さなかった。
- 14 / 501 -
▼back | novel top | | ▲next