▼契約
シズクに名を呼ばれても、カカシは返事どころか視線すら合わせようとはしない。
その様子を目の当たりにしたヒルゼンは、残されたふたりに生じた亀裂が、共に居れば自然と埋めていけるようなものでは到底ないと察知した。
ふたりに手を差し伸べて架け橋となる行為もまた、返って苦しめる。必要となるものがあるとすれば、それは距離と時間。
「シズク、これからどうするかはまだ決めずともよいのじゃ。まずは飯を食べて、よく休むようにの」
人形のように動かないこどもに穏やかに語りかけ、ヒルゼンは去っていった。
*
太陽と月がかわるがわる窓を通りすぎるのを、シズクは馴染みのない部屋で何度も眺めていた。四角い枠の左端からまんなかへ、それて右端へ。軌跡の位置を覚えてしまうくらいに。何日目かの昼がくると、外からは雨だれの音が聞こえてきた。
「愛してる、シズク」
いつもシズクのそばにいた由楽は、いなくなった。とある脅威から命がけでシズクをかばい、死んだ。
「人は誰だって必ず死ぬ。でもいなくなるのとは違うの。見えないけど、生きてるよりも近い場所で大切な人を見守ってるんじゃないかな」
生きているよりも近い場所で?
「うそ」
そうして、シズクは窓に手をかけ、部屋を抜け出した。長らく身を閉ざしていたシズクには、分厚い雲もぼやけた雨も眩しくすら感じられる。
行き先は馴染みの場所ではない。なんとか記憶を辿り、ようやく目当ての建物の前に行き着いた。
白い格好の医者や医療忍者に、ベッドで休養する人々。はじめて入った病院は、外よりさらに真白く、明るかった。
シズクは濡れ鼠のまま見慣れない廊下を歩いていく。
やがて上の階までいくと、“医療班”と書かれた、つきあたりの部屋に入り込んだ。
その部屋は、壁の端から端まで無数の引き出しのついた棚になっていた。机には薬草や札が積み重ねられ、ガラスの試験管や医療器具がところ狭しと並んでいる。シズクにはそれが何に使われるものか、まったく検討もつかない。
引き換えそうとしたそのとき、シズクの真後ろには 見知らぬ老婆が立っていた。
「お主、なにしておる」
老婆は低い声でシズクに問うた。
「……!」
「子ネズミ一匹に侵入されるとは杜撰な管理体勢じゃ。戦中ならとうに木ノ葉はつぶれてるとこじゃわい」
「ご、ごめんなさい」
「さっさと立ち去れ」
「あ……あの」
「聞き分けがないのう。なんじゃ」
「わたし……ここが、すごく痛くて」
「シズクもここが痛んだら来るんだよ」
濡れた服の上から、ちょうど心の臓あたりを両手でぎゅうと握りしめた少女に、老婆は眉を寄せた。
「お主 一体どこの子じゃ。名は」
「月浦 シズク」
「月浦……シズク…とな?」
老婆が呟くような声で繰り返し、徐にシズクに近づいた。
「シズクとやら 手首を出せ。はようしろ」
促されるままに シズクは冷えきった右手を差し出した。老婆―――医療班ご隠居のチカゲは、幼いこどもの手首に指先で触れると、脈診をするかのようにシズクのチャクラの性質を読み取っていく。
「……やはりそうなのか……?そんなことが……否、まあ 礼儀の無さは、むしろ月浦由楽譲りといったところか」
「由楽さんを知ってるの!?」
「あれはワシの孫弟子にあたる。由楽のことならお前より詳しいぞ」
「まごでし……?」
「チャクラで人を治す忍 医療忍者の孫弟子じゃ。あやつは里の者たちを守ることが夢じゃと豪語しておったが、お主を拾ってすぐに忍をやめてしもうた。しかも命を落とすとはのう……我が弟子綱手といい、そのまた弟子の由楽といい、皆半ばで辞めおって」
「由楽さんがシノビ?そんなこと、一度も言ってなかった」
「由楽は忍じゃった。そして由楽を殺したのもまた、同じく忍じゃ」
シズクは絶句して、その場に力なくへたりこんだ。里を守る人たち 大切なもののために戦う人のことが忍だと、由楽は言っていたのに。記憶に甦る鬼の面の忍たちに、濡れた肩は震えだした。そして。
「由楽さんのゆめ……わたしがうばってたの?」
どこかへきえてしまいたい。いますぐにだれもいないところへ―――そのときシズクの頭上に、決定打ともなる ある言葉が降り注ぐ。
「胸の痛まぬよう薬がほしいか」
「はい……」
「その痛みは 歳月をかけてしか治せぬものじゃ」
「……!」
チカゲのその一言で、シズクは幼くとも本能的に、ここから走り去ったら自分が空っぽになってしまうと悟った。
膝をついた白い床に、同じく冷たい両手をつく。
そして、雨だれの伝うぐしゃぐしゃなこうべを垂れた。
「……医療忍者に、なりたい」
こどもの振り絞るような声に、チカゲは厳しくつっぱねる。
「医療忍者を甘くみるでない。医療忍者とは、忍と医者の双方の資質を兼ね備えてなれるのじゃ。下積みに何年もかかる……お前のようなひよっこには到底不可能じゃよ」
「どうしても、なりたい。お願いします。わたしを医療忍者に育ててください」
さらに深く頭を下げると、チカゲは試すように、訝しげにこう言った。
「投げ出さない覚悟はあるか」
シズクは一度 くちびるを結んで「はい」と返事をした。
ほんとうは どれだけ覚悟がいることかはわかっていなかった。
ただしそれを命綱にして生きていけるものならどんな契約でもすると、シズクは決心したのだった。
「ワシの名はチカゲという。シズクよ、医療忍術になりたいのなら、お前はアカデミーに通わねばなるまい。入学試験を受けよ。昼にアカデミーに通い、毎日帰りにここへ来い。お前が下忍になるまでの間、医療忍術をみっちりしごいてやろうぞ」
「じゆうに、たの、しく、生きて」
「そのためにまずは、己で生きる場所を探し、己で頼み、己で見つけよ」
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