▼癒やして満たして
目を覚ますと視界があかるく揺れていた。
朧気なまま見回せば、やや置いて、それが焚き火の作る影だと気がついた。
「おはよ」
テノールの声で、気分はどう と先生が聞いてくる。
「助亜さん」
「カカシ先生 でいいよ」
「……状況は」
「問題ないよ。テンゾウも、予定通り滝の裏の“見張り”を続けてる。ま、詳しい話は今はナシにしよう」
横たわるわたしの上に、大きめのベストがかけられている。たぶん、先生のもの。わたしの着物が血濡れてズタズタなのを気遣ってくれたんだろう。
着物に漂う火薬と血の匂いは、肌に染みる。雨が洗い流してくれるかと思ったけれど、だめらしい。
カカシ先生は収納巻物から忍服を取り出してくれた。
「それ脱いで、代わりに着て」
洞窟の隅で、数日ぶりに袖を通した服は、なんだか自分のじゃないみたいによそよそしかった。
どうやらここは、猫目さん―――テンゾウさんが身を寄せていた洞窟らしい。
パチパチと 薪の火が空気を焦がす。
どしゃ降りの雨が、洞窟を叩く。
任務が、終わりかけている。
「もう私のように苦しむ人がでないように、この戦いの連鎖をあなたが終わらせて」
わたし泣き虫なのに、八重に手をかけたとき、不思議と涙が出なかったなあ。
焚き火に近づいて、カカシ先生の隣に腰を下ろす。
「カカシ先生、わたし しくじりました」
「……」
「こっちのアジトにいた首領の“イチイ”から、情報を聞き出さないままに殺してしまいました」
「そうだったか」
「奴はおそらく、何らかの形で“暁”に関する情報を握っていたのに」
「その件はいい。それよりシズク 手を」
「え?」
「手を見せて」
促されるまま、わたしはカカシ先生の前に両手を向けた。血や土埃に汚れた指先は、小刻みに震えていた。
「ずっと震えが止まらないの。この手でたくさん殺めたんだって思うと……」
気づかなければ傷つかない。涙も出ない。
体の奥底で悲鳴をあげるものが何かを知ってしまったら、気が狂ってしまいそうだった。精神訓練の内容を頭の中で唱えようとしても ひとつとして思い出せない。
「わたし、やっぱり暗部には向いてないみたい。人を殺した自分がこわくてたまらない」
温かい火を見つめながら、先生はそっと、呟いた。
「シズク」
大きな腕に抱き上げられて、体が浮いた。
肩口に、先生のにおいがする。抱き寄せられてるんだ。
この血の滲みは先生のものか、それとも敵のものか、わからないけど 暖かい。
「ごめん」
「カカシ先生…どうしたの?なんで先生が謝るの」
聞いても答えはなくて。先生はわたしを抱き締める力を強めて、「それでいいんだ」と呟き、そっとわたしに触れた。背中を支えていた手のひらが離れて、両方の頬を包む。
手甲に覆われてない指先が耳から顎の輪郭をなぞる。
わたしがここにいることを確かめるように。
「押し殺さなくていいんだ」
こん、と カカシ先生は自分の額宛てをほどいて、わたしにおでこを寄せてきた。
あ、なつかしい。かならずかてるおまじない。
小さな音を立てて落ちた額宛て。
伝わる先生の体温。
強張った銀の髪が頬に当たってくすぐったい。
固く閉じられた瞳に走る傷跡は、近すぎてよく見えなかった。
「お前は我慢しなくていい」
額あわせに響いた言葉。体に震えがやって来て、止まらない。
「……せん」
せい。
呼ぼうとしたけど、額が離れたそのとき、マスクを下ろした素顔の先生が目の前にいて。
整った薄い唇が、わたしの双瞼に触れたのだった。
壊れた硝子にそっと口づけるみたいに。
まるで呪いがするりと解けた瞬間みたいに、瞳からは涙の粒が零れて溢れた。
「……っあ、あぁあ」
赤ん坊みたいに声をあげて、わたしは先生の肩にすがりついて咽び泣いた。
「うあぁああ……っ!!」
頬を流れた雫は雨のように、先生の服を濡らしていく。
「ごめん、ごめんなさい、八重……っ」
この雨が染みるの 目を閉じてもいい?
今夜だけ。
*
時は、オレが千羽谷に合流したときまで巻き戻る。
着いたころには、大体のことは終わっていた。
首領抜け忍のイチイの首だけは、確保してくるきまりだった。いくらしっかり包めども死体。テンゾウは死臭を漂わせる重い包みをオレに差し出した。
「ご苦労様」
一言謂い、印を組んで巻物を口寄せし、術式に書き入れてきれいさっぱり収納。
そうして、倒れているシズクを抱き上げた。
「北アジトの方はどうです」
「白露に後始末を任せてきた。あいつも半日で合流するはずだ」
「月乃の様子も気になりますし ここを離れた方がいいでしょう。近くにボクが使ってた洞窟があります。先輩は月乃を連れて行ってください」
「お前は?」
「すぐ合流します。一雨来る前に」
「じゃ、あとで」
「先輩」
「ん?」
「実は気になることが…」
そのときのテンゾウは複雑そうな顔をしていて、報告された内容は、複雑怪奇なものだった。
枯れるまで涙を流したあと、シズクはほとんど気を失うようにして眠りに落ちた。
オレは今一度、しっかりと彼女を抱き寄せる。腕の中にいるまだ幼さの残る体は、この苦しみを背負うには軽すぎた。
寝顔すら、まだあどけない。
なんて残酷なんだろう。神様はこの子供は人を殺す力と救う力とを両方与えてしまった。
誰かの命を拾い上げたその手で血を滴らせて、板挟みじゃない。
再び目を覚ましたとき、シズクはどれだけ傷つくだろうか。
ひなたで笑っていて欲しかった。かつて中忍試験で、木ノ葉が好きなんだと叫んで戦ったお前のままで。
シズク、お前は今も ああやって同じことを叫べるだろうか。
優しいお前の盾になりたかった。人の命を奪う苦しみなんか知らないで幸せになって欲しかった。
……なーんて、忍のくせして何考えてるんだか。
「先輩 ボクはこの目で見たんです。シズクが何らかの術で死者の霊を呼び出して、話をしているところを」
死者と言葉を交わすなんて、そんなことできるはずない。できるはずがないと、信じたかった。シズク。
例えお前の涙を拭うことしか出来なくてもオレは傍にいよう。
疲れも悲しみも、雨に溶けて流れればいい。
今夜は月も隠れてるし、そもそも神様なんて、この世のどこにもいないんだから。
せめてこの瞬間だけでも、
世界のすべてから覆い隠しておまえを、
癒やして、
満たして。
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