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エスケープ

!タイバニ、日本に来てる留学生のイワンとホァンがルームシェアしてるお話



カーテンの隙間から少しだけ漏れてくる朝日が、閉じた瞼に染みる。買い出しの時に少しの金額をけちらずに遮光カーテンにすれば良かった、と毎朝考えるが、それでも買い換える予定はない。まだ2カ月しか使用してないカーテンを買い換えるほどの経済的な余裕は、イワンにはなかった。
扉を一枚隔てた向こうから、がちゃがちゃと音が聞こえる。それが煩わしくて、イワンは布団を頭から被って身体を丸めた。

「イワーン、朝トレの時間だよー、起きてー」

がんがんと扉を叩いて、この二カ月ですっかり聞きなれた声が聞こえる。うー、と口の中で小さく唸って薄く目を開けた。と、同時に布団をはぎ取られ、途端に明るくなった視界に急激にテンションが下がる。

「眠い……」
「イ・ワ・ン!今日は新しい技の練習に付き合ってくれるって約束したでしょ?」
「また明日、」
「だめ!ほら、早く起きて!!」

カンフーで鍛えた腕力は女子と言えどもなかなかのもので、力いっぱい揺さぶられて若干酔いそうになりながらも何とか立ちあがる。気を抜けば瞼は勝手に閉じようとするし、思考は回らない。早く早くとせかすホァンに手を引かれてリビングのテーブルに座る。ほら、と言って差し出されたインスタントの味噌汁をすすった所で、ようやく脳みそが覚醒し始めるのも、最早日課であった。

「ミソスープ美味でござる……!」

お湯を入れるだけで日本の代表食、味噌汁を飲める。なんて素晴らしい文化だろうか。貪欲に利便性と簡易性の両面から進化し続ける日本の食文化に触れる度に、イワンは得も知れぬ興奮を覚え、この国を留学先に選んで良かったと改めて思うのであった。塩分が縮こまった神経に染み込んで、それをゆっくりとほぐしていく。

「やっぱり朝の味噌汁は最高だね……」
「目が覚めたなら早く顔洗って!トレーニングの時間なくなっちゃう」
「うん」

手早く顔を洗い着替えを済ませ、重力に逆らってはねる寝癖はそのままに、小走りで公園に向かうホァンの背中を追いかける。
日本に留学を決めた時は、正直不安もあった。物心ついた時から憧れていた大好きな国だったから、いつか絶対に行きたいとは思ってものの、今一人でこの国に来て自分は何が出来るのか、誰一人頼れる人間がいない国でやっていけるのか。元来、人付き合いが得意な気質ではない。大好きな日本のことになると多少多弁にはなるものの、基本的に無口で人見知りで、一人で何かに打ち込む方が好きだった。予備知識はあっても、実際暮らすとなれば文化の違いに戸惑うことも多いだろう。不安な気持ちよりも、好奇心が若干勝って留学を決めてからも、不安は消えないままだった。
それが、ルームメイトのホァンと出会ってから、嘘の様に不安が消えたのだ。イワンの胸の奥に巣くい続けていた重苦しい感情は、彼女の明るい笑顔とあっけらかんとした物言いに、あっという間に食われてしまった。カンフーマニアの彼女に修行と称した朝トレに付き合わされるのだけは困りものだが、彼女に救われている部分は大きい。

「今日の新技は強力だから、覚悟してね」

そう言って笑いかける彼女のお陰で、受け身をとるのがうまくなった。また痣が増えるのであろう我が身体を憂いながら、それでもイワンはこの鬱屈とした国で、以前よりも朗らかに笑うのだった。



「なー、お前さ、ホァンと出来てるのか?」
「デキテル?」

ホァンの宣言通り、今日の彼女はいつにも増して激しかった。生き生きと拳を奮う彼女の顔にイワンは時間が迫っていることがなかなか言い出せずに、必死に避け、受け身を取っていたのだが、運よく通りかかった同級生に声を掛けられて朝トレは遅刻ギリギリの時間にようやく終了となった。朝早くに身体を動かした所為で、もう既に眠たい。一現目開始教室の片隅、まだ穏やかな陽の光がイワンの色素の薄い髪に注ぐ。うとうとと舟を漕ぎだした時に、前触れもなく声が掛けられた。

「付き合ってんのかって聞いてるんだよ」

眠い目をこすって見上げると、挨拶くらいしか交わしたことのない男子生徒が憮然とした顔でイワンを見ていた。まっすぐと見詰めてくるその視線に怯み、思わず視線を逸らしながら小さな声でただの友達です、と返すと頭上から小さく息を吐き出す音が聞こえる。

「だよなー。お前みたいな暗い奴が彼女なんて作れるはずないよな、悪いな、変なこと聞いて」

全く悪ぶれている様子のない軽い物言いでそう告げると、彼はさっさとその場を去り友人たちの輪の中へと帰って行った。ひどいことを、言われた気がする。けど、それに対する怒りはない。今までだって散々言われてきた言葉だ。引っ込み思案で人見知りで、すぐに卑屈になるイワンに、親でさえも呆れてため息をつく。イワン・カレリンは、期待されないことに慣れ過ぎていた。悔しくなんてない。自分の性格のことは、自分が一番よく判っている。
ただ一つだけ、自信を持って胸を張って好きだと言える、我を忘れるくらい夢中になれる大好きなこの国に来ても、自分は何一つ変わらない。
膝の上で手を握りしめた。

「イーワーン!ねぇねぇ、英語のテキスト貸して」
「あ、う、うん」
がらりと勢いよくドアが開いて、教師が来たのかと見遣ると、そこには件の彼女がいた。隣のクラスのホァンは特に気にする様子もなく、まっすぐとイワンの席に向かってくる。不意に声を掛けられて、思わず上ずった声で返答すると、彼女はちょっと目を見開いた後、ジト目でイワンを睨みつけた。

「またへこんでるでしょ」
「へ、そんなことないよ、いつも通り……」
「嘘つき!ほんっと、イワンって嘘つくのヘタなんだから」

ずいっと顔を近付けてくるホァンに、自然頬に熱が集まってくる。距離を取ろうと必死でのけぞるも、彼女は遠慮なしに更に接近してイワンの顔を覗き込む。
横目で先ほどのクラスメイトを見れば、またあの不機嫌そうな顔でこちらを睨んでいた。
気持ち悪い、暗い、そんなこと言われ慣れてるのに。誰かに不快感を与えたいわけじゃなにのに。

「ああ、もう!言ってるそばから更に落ち込んでる!」
「いや、僕、そんな、」
「もう、行くよ!」
「え、どこに」
「良いから着いてきて」

朝と同じようにぐいと手を強くひかれ、始業間際の教室を二人で抜け出した。



「さぼりは良くないよ」
「イワンが死にそうな顔してたんだもん、授業どころじゃないよ」
「死なないよ……」

人目に付かない様に小走りで連れてこられたのは屋上だった。頬を撫でる風は冷たくはないが、心地よい暖かさを提供してくれるでもない。黙っていれば底冷えしてしまう。それでもやはり、白い太陽光は明るく二人を照らし、ゆっくりと身体を温めてくれた。

「なんで落ち込んでたのかは聞かないよ。イワンは男の子だし、人それぞれジジョーってもんがあるからね」
「……」
「でもイワンは不器用で寂しがり屋なんだから、一人で落ち込むのは絶対禁止!うっかり死んじゃったら、僕が悲しい」
「いや、だから死なないよ……」

あははと軽やかに笑ってホァンはその場にしゃがんだ。つられてその横にイワンも腰を下ろす。ホァンが常に仏頂面のイワンの機微を的確に読み取れるのは何故だろうか。何を考えてるのかわからない、とはよく言われるが、嘘を吐くのがヘタだなんて言われたのは、ホァンが初めてだ。

「イワンはわかりやすいよ」
「そうかな。あんまり顔に出ない方だと思うけど」
「ううん、日本のこと話してる時とか目がきらきらしてるし、たまに語尾にござるってつくし、眠い時は変な顔してるし、楽しい時はふわふわしてて、悲しい時はしょんぼりしてる。僕には、すぐわかるよ」
「……ホァンは凄いね」
「そう?ちゃんとイワンのこと見てるだけだよ」

気持ち悪い、暗い、何を考えているのかわからない。
そんな言葉ばかりを浴びて来た。人見知りで口べたで引っ込み思案で、友達と呼べる様な人間だってろくにいなかった。
だけど、出会って二カ月しか経っていないのに、ホァンはイワンをまっすぐに見て笑う。手を握って、引っ張ってくれる。死んだら悲しいって、言ってくれる。

(死ぬつもりなんて、ないけど)

独りぼっちには慣れていたし、寂しいとも思わなくなっていた。感覚が麻痺していたのかもしれない。でもきっと、ホァンがいなくなったら、それはとても悲しいことだと思う。
人が人を知るのに、人が人を大切だと思うのに時間はさほど大切じゃないと教えてくれたのは、彼女だった。

(ホァンの隣は、とてもあたたかい)

自然と重ねられていた手をぎゅっと握ると、応えるように握り返される。ああ、幸せってこういう気持ちを言うんだっけ。

「僕も、ホァンが死んだら悲しい」
「え、僕は死なないよ」
「……わかってるよ」



20110524

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