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スクールデイズ

はっ、と気付いた時には頭の先から爪先までずぶ濡れだった。
授業が終わり、いつ何が起こるかわからない緊張感からようやく解放されたと気を抜いていたのが良くなかった。
ぽたぽたと前髪から滴り落ちる水滴が頬を掠めて足元へと落下していくのを、他人事の様に見ていた。空を見上げれば雲ひとつない快晴である。夕立だとかにわか雨でないことは、周囲の乾いた地面と下校途中の生徒たちの白い視線を見ればすぐに理解出来た。
ああ、またやられたのか。
悲しいかな、そう理解するのに時間はかからなかった。

「ほんっと、お前って鈍くさいよなぁ」

そう言ったジュダルは、至極愉快そうに笑っていた。



同じ学年のジュダルのことは前々から知っていた。
良くも悪くも目立つ人間だ、さほど交遊範囲が広くなく校内の情報に詳しいとは言えない俺でさえ、黙っていても自然とその噂は耳に届く。隣町のその筋の方々とやりあって勝ったとか、やばいグループに入っていて最近その幹部になった、とか。
そんな人だから、俺もその容姿は知っていた。遠目で見て同級生の女子がきゃあきゃあ言っていたから。青年と言うよりは少年に近い危うさと色気を孕んだ中世的な容姿は、一度見ただけで僕の脳裏にしっかりと焼き付くには充分なインパクトを持っていたのである。
そんな色んな意味で有名な奴と初めて接触したのは、6月第二週の金曜日の昼休みのことだった。

「よぉ、アラジン」

友人であるアラジンと購買に昼食を買いに向かっていた時に、奴に呼び止められたのだ。

「……こんにちは、ジュダルくん」

歯切れの悪い物言いに強ばった表情。
噂とは違い、ジュダルは人好きのする笑顔で親しげに話しかけてきた。にも関わらず、アラジンはジュダルに対して警戒心を露わにしていた。
どうやら知り合いだったらしい親友と校内一の有名人の関係に好奇心は沸いたのは事実だ。誰にでも愛想よく、友達の多いアラジンである。あからさまに他人に対して警戒心を見せるのは珍しい。彼とは高校からの付き合いで、そう長くもない付き合いであるが、それでもこの二年間はずっと一緒にいた。アラジンの気質はよくわかっているつもりだ。ジュダルには近づくべきではない、きっとそういうことなのだと、俺はすぐに悟った。

「何か用かい?急いでるんだけど」
「つれない奴だなぁ。久し振りに見かけたから挨拶しただけだろ」
「ならもういいよね。ばいばい」

行こう、と小声で告げて俺の手を掴み、アラジンは足早に歩き出した。
振り向けば彼は小さく微笑み俺に手を振っている。咄嗟に反応出来ず、何とかわかるかわからないか程度に頭を下げて見せると、奴は満足そうに笑みを深くしてその場を去った。





その出来事はジュダルと言う俺にとって特異な存在をもってしても、一週間も経てば記憶が薄れてしまう程度の出来事だった。
アラジンと校内の有名人が何やら訳ありだったとしても、俺とは直接関係のあることではないし、何よりあの時のアラジンの態度を思い返せば奴との関係を問うのも躊躇われた。ジュダルの素行やら倫理に興味がないことはない。どころか、平凡絵に描いた自分とは真逆にいる奴に対して好奇心は疼く。
だがそれだけのことだった。
自ら動いて奴と接触を図ろうだなんて端から頭になかったし、日々の雑務に埋もれて奴との邂逅を思い返すことも少なくなった、そんなある日の放課後のことだった。

「よっ」

用事があると言うアラジンと別れ一人帰路についていた俺に背後から掛けられた声は、つい一週間前に聞いた少し高くて癖のあるあの声だった。

「あ、」
「覚えてないか?お前、こないだアラジンと一緒にいた奴だろ?ほら、先週の金曜の昼休みに」
「覚えてるよ。覚えてるけど」
「あの有名なジュダルさんが俺に何の用ですか?」
「え」
「って、顔に書いてある」

思考を言いあてられて挙動不審になる。ジュダルはくつくつと喉奥で笑っていた。それがあんまり綺麗なものだから、俺は思わず見惚れてしまって、だから反応が遅れてしまったのだ。

「っ……!」

湿った空気の中に渇いた音が響いて、それを鼓膜が拾った直後に頬に鋭い痛みが走った。ぱあん、と響いたそれは初めて耳にする音で、すぐに事態を把握することが出来なかった。

「ああ、お前って反応鈍いんだな。まぁ意外でも何でもないけど」

奴が挨拶するのと何ら変わらない口調でそう言うものだから、その非日常を脳みそが受け入れるのに余計時間がかかってしまう。
こいつは何故つらっとした顔で笑っているのだ、だって俺はたった今、確かにこの男に、この名前しか知らない様なほぼ初対面の男に平手で殴られたのに。

「……なん、で」
「それはこっちの台詞」

全身から力が抜けて行く。その場に立っているのがやっとだ。
ジュダルは、僕を見下ろしてこう続けた。

「何で赤の他人に殴られて怒りもしないで茫然としてんの?怒るなり泣くなり少しくらいは反応してくれないとこっちもつまんないんだよ」

彼の薄い唇から紡がれる言葉はやはり透き通った音なのに、それはとても耳障りで全く意味を理解できない。こいつは一体何を言っているんだ。俺に何を求めているんだ。

「本当にさぁ、お前見てるとイライラするんだよね」

そんな理不尽な、とは思ってもそれが言葉になることはない。息を吸い込めばひゅっと音がする。俺の口から漏れたのは非難でも否定でもなく、ただの音になり損ねた空気だけだった。





それからジュダルは実に地味な嫌がらせを繰り返した。
最初は靴が左右逆に並べられていただけで、俺も気にしていなかったのだが、そこから次第にエスカレートしていくことになる。物を紛失することが多くなったり、バレーボールやサッカーボールが俺の顔面を目がけて飛んでくる確率が異常に高くなったり、急に靴ひもが切れて転んだりもした。
最近ついてない、くらいにしか思っていなかったのだが、それらの「小さな不幸」の後に必ずジュダルに会うのだから、さすがの僕もすぐに気がついた。

「よぉ、アリババクン。どうしたんだ?」

白々しい態度でそう言い放つ奴を見てさすがの俺もすぐに勘付いた。この地味で陰湿で小学生のいじめみたいないやがらせの数々は、こいつが仕組んでいることなのだ。
何が楽しいのか、俺には全く理解できない。
だけど、奴の前に立つと俺は蛇に睨まれた蛙の様に何も言えなくなってしまうのだ。
足がすくむ、声が出ない、まともに視線だって合わせることが出来ない。ジュダルが怖かった。彼の眼は底知れない闇を孕んでいた。覗きこめば引きずりこまれて一生浮上できないんじゃないかと思える程の底深さでもって、俺を震え上がらせる。

「またそうやって黙るのかよ?アラジンが隣にいないと喋ることも出来ないのかなぁ」
「お前には、関係ないだろ」
「はっ」

お前みたいにつまらない人間は見たことがないよ、走って逃げる俺に、ジュダルはそう言い捨てた。
そんなにつまらない人間なら、関わらなきゃいいじゃないか。たまには怠けたりさぼったりもするけどまじめに生きているだけなのに、どうしてこんな目に合わなくてはいけない。理不尽だ。
全力疾走で息があがる。情けなくて涙が出たけど、泣くのは悔しいから上を向いて飲み込んだ。





続く嫌がらせは、ジュダルの姿を見れば反射的に身が竦む程度に俺の精神を脅かした。
学校にいる間はいつどこで奴と会うかわからないから常に気を張っていなくてはいけないし、もし会ってしまったら被害を最小限に抑えなくてはいけない。毎日がサバイバルである。
最初こそ戸惑うばかりだったが、人間とは慣れる生き物である。決して喜ばしいことではないが、時が経てばそれも日常の一部となり下がるのだ。と言っても俺が慣れたのは「ジュダルから嫌がらせを受ける日常」であって、「ジュダルから受ける嫌がらせ」では断じてない。気分は滅入るばかりだ。
そして今日、またやられた。頭上から降ってきた大漁の水は一寸も違えずに俺に命中したのだ。少しずつエスカレートしていく嫌がらせに厭な予感はしていたが、これはここ数日の中でも断トツに性質が悪い。

「そのままでいると風邪ひくぜ?」

誰の所為だ、誰の。
見上げれば、二階の窓から身を乗り出してこちらを見て満足げに笑っている奴がいた。口角をやけにあげるその笑い方が、大嫌いだと思った。
秋めき始めた風は、ずぶ濡れの身体には少々こたえる。髪からも制服からも吸収しきれなかった滴が落ちて、地面を黒く染めて行く。

「今日もだんまりかよ。お前、いつまで立っても学習しないな」

多少の免疫はついたものの、やはりジュダルは怖い。
奴の前に立てばうまく言葉が出てこないし、視線を合わせることも出来ない。言われっぱなしで悔しいと思っても、言い返す言葉を思いついても口にすることが出来ない。奴の前に立つと、俺の声帯は機能しなくなってしまうらしかった。今日もまたいつも通りに、奴に届いたかは不明だが小声で帰る、と告げてその場を去る自分が、酷く惨めだった。
とにかく、このままでは帰れない。
運動部の友人にタオルを借りて(濡れている理由は曖昧に誤魔化した)、置いたままにしていたジャージに着替える。わしわしと髪の毛を拭けば、存外早く髪は乾き始める。

(何でこんな目に遭わなくちゃいけないんだろう)

もうすっかり陽は傾き始めていた。誰もいない教室に夕陽が差し込む。物悲しくも美しいその光景は、弱った俺の涙腺を刺激するには充分だった。
ジュダルに受けた仕打ちで泣くのだけは絶対に厭だった。それは、反抗できない俺の唯一の抵抗だった。どんなに心が折れそうな時でも、唇を噛んで手を握りしめて耐えた。
でも、今日はだめだった。
視界が滲んでいき、限界を越えたところで一粒涙が零れ落ちれば、後はなし崩しで。堪えていた分の反動か、油断するとしゃくりあげる声まで漏れてしまいそうになる。締め切った誰もいない教室だが、いつ誰が来るかわからない。外に声が漏れない様に、声を殺した。
その時、教室のドアが乱暴に開かれた。

「まだ居たのか?ああ、さすがに着替えたんだ」

透き通った声に馬鹿にした色を隠しもしない言い回し。ジュダルだ。何でこのタイミングで…!

「ほら、早く帰って制服アイロンかけないと皺になるぜ。どうせお前のことだからそこまで頭回ってないんだろ」

泣いていたことを知られたくなくて、振り向くことも言い返すことも出来ずに、ただ奴に背を向けて窓の外を見た。堪えようとすれば逆効果で、余計に涙が溢れる。

「……ちょっと、少しくらいは反応しろよ」

無反応の俺に焦れた奴に肩を掴まれ、強引に振り向かされて身体が傾いた。厭だ、見られたくない! そうは思っても、力の抜けた状態では逆らうことも儘ならず、あっさりと情けない顔を奴に晒してしまう羽目になる。

「っ……はなして、くださ、」
「……?、おま……」

絶対にばかにされる。
そう構えて、奴の腕を振りほどいて急いで距離を取った。これ以上ここに居たら、こいつに何かを言われたら、俺はしばらく立ち直れる自信がない。鞄を引っ掴んでがむしゃらに走り出した。





「何で一人で泣いてるんだよ」

あの曖昧な表情が嫌いだった。他人の前では笑ってるのに、俺の前では怯えて目すら合わせない、その臆病さが嫌いだった。幼さの残る声が滅多に発せられない唇が嫌いだった。彼の表情を崩したい、苦痛に歪む顔でも嫌悪を露わにした顔でも良い。とにかく、俺の存在を認めない彼を苦しめたいと、そう思った。
だけどどうだろう、あいつはどんなに陰湿な仕打ちを受けても俺に抗議もせず、非難に満ちた目で俺を見ることもしないで、ただ俺の存在を彼の中から排除しようとしている様子だった。
なんて腹立たしいことだろうか。

「はっ、」

そしてもっと腹立たしいことは、俺が今、あいつ――アリババが誰もいない教室で一人声を殺して泣いていたことに、動揺していると言う事実だった。



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