メイン | ナノ




ご近所さんジャファアリちゃん

 初めて彼と出会った瞬間から、俺は彼のことが大好きになった。

「アリババくん、初めまして、こんにちは」

 少し幼さが残るその顔に温厚な笑顔がのれば、この人を嫌いになる人などいないのではないかと思うほどの良い人オーラが体中からにじみ出る。鼻の上に散らばったそばかすも銀色の透けるような柔らかい髪の毛も、その印象に似合わず硬いてのひらの感触も、全てが好ましくて全てを知りたいと思ったその当時、俺はまだ小学校にすらあがっていなかったと思う。
 賃貸マンションが多いこの地域では、ご近所同士の付き合いはとても希薄だ。それでも、ジャーファルさんは越してきてすぐにご近所のおばさま方のハートをぎゅっと捕まえてしまう好青年ぶりを発揮していた。俺の母親もご多分にもれず、一人暮らしの大学生でありながらごみ収集所の掃除当番をかってでた彼にすぐさま好意を示し、何かにつけては彼の面倒を見たがった。多めに作った惣菜を持っていったり、時には我が家の晩餐に彼を招いたりもした。俺が初めて彼に出会ったのも、ジャーファルさんが我が家に夕食に招かれた時のことだ。
 初めて見る銀髪が眩しくて眼を細めた俺の頭を優しく撫でる硬い感触に、母親のような柔らかさとは違う異質な心地好さを感じた俺は、最初それが好意だと気付くことすら出来なかった。だがしかし、一緒に食卓を囲んで三十分、俺はすぐに彼のことが大好きなのだと自覚してしまった。
 柔らかい物腰、丁寧な言葉遣い、さりげない気遣い、太陽みたいな笑顔、誰が彼を嫌いになると言うのか。それ以来、一人っ子だった俺は彼のことを兄のように慕い、一人でこっそりと家を抜け出してはジャーファルさんの家にお邪魔し、夕食前に彼に連れられて我が家に強制送還させられるという日々を繰り返した。
 何も考えずにただ彼の周りをうろついていた幼少時代を過ぎ、少しの反抗期も乗り越えて、俺はこの春から高校生になった。
 足りない偏差値を血がにじむ様な努力で撥ね退けなんとか補欠合格を果たしたこの学校を志望した理由はただ一つ、教壇でクラス中を見回してから少し幼さが残るその顔に温厚な笑顔を浮かべた彼の為なのである。

「入学おめでとうございます。今日から君たちの担任になります、ジャーファルです」

 そう、大学で教育学部に在籍していた彼は、俺が十歳の時に高校教師となった。それまでは比較的時間を自由に使えていたから俺にも構ってくれていたが、社会人となればそうもいかない。日に日に減っていくジャーファルさんとの時間に危機感を募らせた俺は、十一歳の時には彼が勤務する高校を志望することを決めていた。決めてはいたのだが、だからその時から勉学に励んでいたかと言えばそれとこれとは話しは別で、ジャーファルさんに遊んでもらえないうっ憤を幼なじみと遊んでもらうことで晴らしていた為に成績はごくごく普通、中間線上を浮いたり沈んだりしていた。
 だが人間、死ぬ気になればなんだって出来るものである。俺の志望校が自分の勤務校だと知ったジャーファルさんは最初こそ驚いていたが、俺がボーダーラインの下にいることを知るとすぐに受験対策に勉強を教えてくれるようになった。

「受験問題の作成に関わっていないからぎりぎりセーフです。これは不正ではありません」

 自分の高校を志望する特定の受験生を教えているのはまずいのではないかと聞いた時、真面目で律儀なくせに柔軟性もある彼は、そう言って人差し指を口に当てて人好きのする笑みを浮かべた。それを見てまた、俺は本当にこの人のことが好きなんだなぁと再認識してしまった。ジャーファルさんと一緒にいるためなら、どんな困難だって乗り越えて見せる。

「いや、でもお前それって」

 入学式の緊張から解放された俺は、地元近くのファーストフード店で幼なじみであるカシムと互いの制服姿を披露し合っていた。もっとも、自慢げに見せびらかしたのは俺だけでカシムは相変わらず何を考えているのか分からない不機嫌そうな面でコーラを啜っていただけだったのだが。

「なんだよ」

 珍しく歯切れの悪い幼なじみにずいっと近付いて至近距離で人相の悪い顔を見れば、視線を逸らされる。カシムはこの確実に人ひとりは殺っている(ように見える)顔つきの所為で怖がられることが多いのだが、その実根は良い奴なのだ。ちょっと言葉がきついけど。ちょっと乱暴だけど。そんな彼が、いかにも言いにくそうに視線を泳がせる。こんなカシムは久しぶりに見た。記憶が正しければ、小三の時に初恋の女の子が隣りのクラスのイケメンと付き合い始めたことを俺に教えてくれた時以来の表情である。

「あー……、お前ってジャーファルのこと好きなのか?」
「あったりまえだろ! じゃなきゃあんな必死になって勉強なんてしないって」
「いや、そうじゃなくて……」

 今日のカシムはとことん歯切れが悪い。これはあの小三の時を上回る歯切れの悪さだ。
 カシムもこうやって言い淀むことを覚えたんだなぁと思うと、子どもの成長を見守る母親の気分になれた。カシムったら本当に大きくなって……。
 そんなことを考えていたら何かを察したカシムに物凄い形相で睨まれた。こいつの野生の勘はんぱない、怖い。

「あーもうめんどくせぇ、お前、ジャーファルのことそう言う意味で好きなのかって聞いてるんだよ」
「そういう意味?」
「お前はホモなのかって聞いてる」

 あまりに唐突な質問に、瞬間思考が固まった。
 ホモって、ホモサピエンスのことか。俺が人間なのかってそういう意味ならば答えはイエスに決まっている。

「お前、また変なこと考えてるだろ……」

 慣れない勉強のしすぎなんだよ、とカシムが頭を掻きながら深いため息を吐いた。それがまるで物分かりの悪い子どもへの態度の様で、少しだけ癪にさわる。

「……あいつのことは好きじゃないけど、ここまでだと同情するな」
「は? 何、どういう意味だよ」
「何でもねぇよ」

 音を立てて残りのコーラを飲みきったカシムは乱暴に席を立ち、それ以上聞けないまま彼の後について俺達はその店を出た。



「ジャーファルさんこんばんは!」
「こんばんは、アリババくん」

 他の生徒に変に勘ぐられるのはジャーファルさんの為にならないからと、学校ではジャーファルさんと必要以上に関わらないようにしようと決意したのは合格発表の夜のことだ。補欠ながらももぎ取った合格をすぐにでもジャーファルさんに報告したくて彼と電話しながら、歩いて五分の彼の家まで走って三分で辿りついた。ドアが開いた瞬間にその薄い胸に飛び込んだ時はまだ寒くて鼻の頭がじんと冷えていたのに、もう底冷えするような寒さはとうに去った。
 肌をじわりと染めていくような春冷えにふるりと身を揺らせば、ジャーファルさんはすぐに温かい飲み物を用意しますね、と柔らかい声をかけてくれる。ありがとうございますと素直に返事をして、いつもの定位置、テレビの前の紺色の座布団に腰を下ろした。
 この部屋は十年前から変わらない。置いてある本の種類やシャツの枚数は変わったけど、彼の纏う雰囲気や匂いは、あの頃も今もなんら変わらない。そして、そんな彼への好意も十年前と一寸も違わないのだ。

「制服、とても似合っていました」

 差し出されたマグカップを覗きこめばミルクが湯気を立てている。ふぅと息を吹きかけてから少しだけ啜れば、ほんのりと甘いはちみつの味がした。

「へへ、ありがとうございます。ジャーファルさんの先生姿もとってもかっこよかったです」

 ジャーファルさんは相変わらずの人間たらしで、最初のオリエンテーション後はすぐにクラスの女子達に囲まれて近寄ることが出来なかった。女子達が彼を囲むのは異性としての彼に興味があるからだけではないのが、その輪を外から見守っていた男子生徒たちの視線からも感じ取れた。話しを聞いて欲しい、一緒に悩んで背中を押して欲しい、そう思いたくなる何かが彼にはあるのだ。この一年間、このクラスはジャーファル先生のもとで素晴らしいクラスになることだろう、断言しても良い。
 そんな彼の姿に嫉妬を感じないでもなかったが、大好きなジャーファルさんが生徒に慕われているのはやはり素直に嬉しい。彼はこんなにも素晴らしいのだ。一人占めしたい気持ちがないわけではないが、みんなにももっと知って欲しい。
 隣を見れば、ジャーファルさんがほんのりと口角をあげてテレビの画面を見ている。スーツ姿ではない、パーカにチノパンのジャーファルさんを知っているのはあのクラスでは俺だけなのだ。それだけで充分である。
 十年間変わらない居心地の良い左に甘えてジャーファルさんの肩に顔を寄せると、アリババくん、と名前を呼ばれる。

「眠いんですか?」
「違います、俺、幸せなんです」

 しあわせ? と、ジャーファルさんが微笑んだまま小首を傾げる。その仕草までもが俺を温かい気持ちにさせていることに、この優しい人は気付いているのだろうか。
 頭を撫でてくれる少し硬いてのひらの温度に瞼が重くなっていく。明日も学校があるのだから、そろそろ家に帰らなくてはまずい。だけど、ここがこんなにも居心地がいいものだから、家に帰るのが酷く億劫なのだ。
 
「みんながジャーファルさんのことを好きになることも、こうして誰も知らないジャーファルさんを俺だけが知っていることも、全部幸せなんです」

 頭を撫でるてのひらの動きが止まる。頭上で、息を吸い込む気配がした。

「アリババくん、」

 少しだけ震える声で名前を呼ばれ、顔を上げるとジャーファルさんが薄らと赤く染まった熱の籠った眼で俺を見ている。熱心な視線に全身がくすぐったいような感覚に襲われ、頭を撫でてくれていた右手ではなく宙に浮いていた左手を握りしめる。
 ジャーファルさんが薄い唇を一文字に引き結んだ。

「俺、本当にジャーファルさんのこと実の家族みたいに思ってるんです!」

 だから、俺は思いの丈を伝えるためにありったけの気持ちを込めてそう言った。俺は彼を追いかけて高校に進学するくらいにジャーファルさんが大好きだ。小さな頃からお世話になっていたし、これからもずっとお世話になりたい。
 一人っ子だった俺にとって、小さな頃からまとわりつく俺の面倒を見てくれて一緒に食卓を囲んでくれたジャーファルさんは、俺にとって父親であり兄であり、かけがえのない家族そのものなのである。

「…………」
「ジャーファルさん?」
「あ、……はい、私もです。私もアリババくんのこと家族みたいに思ってます」

 一瞬だけ表情を固まらせたジャーファルさんに不安がよぎったが、名前を呼べばすぐにいつもの笑顔を向けてくれる。それが嬉しくて、俺は堪らず彼の薄い胸に抱きついたのだった。

「生殺し……」
「え、なんですか?」
「いえ、何でもないです」


121108


[ 12/12 ]

[*prev] [next#]




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -