黒バス | ナノ







 どんなに気持ちが重くて気分がのらなくても時間と言うのは無情で、あっという間に眠れない夜は明ける。日曜日は何もせずに鬱々と過ごし、エンペラーさんから来ていた新着のメッセージにまたもや返信を出来ずにただただ時間だけが流れていく。
 エンペラーさんからのメッセージは今日読んだ本の内容とボクの身を案じるものだった。この本と言うのがボクが先日おすすめしたもので、彼はボクが感じたことに加えて聡明な彼独自の視点からの感想も添えられており、本当なら今すぐにでも返事がしたい。だが出来ない。何を返していいか分からない。
 このことばかりを考えているから日常生活もままならないのだ。だらだらと過ごし、時間を無駄に過ごした。本当は健康体のくせに身体が重く感じるのは罪の意識からだろうか、それとも言霊のせいで風邪でもひいたのか。やるべきことは土曜日で全て済ませてしまっていたから、アイロン掛けくらいしかすることがなかったのがせめてもの救いだ。そうこうしているうちに貴重な休日は過ぎて、身を粉にして働かなくてはならない月曜日がやってくる。
 寝不足の瞼に朝日が染みて目を瞬く。脳みそも身体もまだ目覚めていないが、どうにかそれを叱咤して立ち上がった。ゆったりとした動作でネクタイを締めれば何とかビジネスモードに切り替わる。よし、と小さく呟いて、ラッシュの電車でもみくちゃにされながら出勤した。

「なんだこれは」

 ビジネスモードに切り替わったと思ったのだが、どうやらボクは自分で思っている以上に切り替えが下手だったらしい。そう言えば、中学時代に部活の相棒と仲違いをした時も、無表情だから周囲にはばれなかったが一年くらい引きずった。
 目の前にいるのは威圧感たっぷりの泣く子も黙る、もとい、涙目の部下も無能な上司も裸足で逃げ出す赤司部長である。彼は常にその身に緊張感をまとっているのだが、今日はそれがいつにも増して鋭い気がする。もしかして土曜日のせいだろうか、などと赤司部長を目の前にして余計なことを考えてしまったのが運の尽きだった。

「おい、黒子。僕は今、お前に頼んだ年次の資料のことを話しているんだ。お前は今何を考えている」
「……部長の質問の意図するところを考えていました」


 この人本当に何者だ。よもや思考が読み取れるのではとバカげたことを考えてしまうが、それを笑い飛ばせないところが彼の恐ろしいところである。なんとか返した答えもだがしかし、部長には嘘だとお見通しだったのだろう。これ見よがしにため息を吐かれて言葉が詰まる。

「まず、見にくい。もっとまとめようがあるだろう。それに、同じ種類のデータがあちこちに散らばっている。数字の根拠もない」
「はい、すみません」
「もう良い、締め切りは今月の二十日だ。それまでに完璧なものに仕上げろ」

 取り付く島もない物言いに頭を下げて踵を返そうとしたその時、おい、と声を掛けられて振り返る。

「もしかして体調でも悪いのか」
「え、いえ」
「なら良い。早く戻れ」
「はぁ……」

 年次資料の中間報告を求められて提出したまとめは、想像以上にぼろくそに言われてしまった。もちろん、これで満足しているのではないしこれから修正を加え見直しもするつもりだったが、これは自分で思っていた以上に危機的状況なのかもしれない。
 今日は細かいミスも幾つかしている。このままではまずいとトイレで顔を洗い鏡を見るが、ひどい顔をしていることに気が付いてしまって余計に落ち込んでしまった。これは部長も体調不良を疑う訳である。
赤司部長は、いつもより少しぴりぴりしているようには見えたが、落ち込んでいるようには見えなかった。風邪のせいにしたんだ、残念がってはくれていたとしても彼が落ち込む必要などない。それに、良く考えればぴりぴりしているのだって監査が近いせいもあるだろうし、午後からの上役の会議のせいかもしれない。ボクが、くろてつなんかが彼に影響を与えることはないのだ。
そう考えると、何故だか少しだけ胸が痛んだ、気がした。



「今日は天気が良かったですね。仕事中に窓の外を見て天気が良いと、どこか遠くへ行きたくなってしまうから困ります。また明日から崩れるそうで残念ですが……。
 先日の土日もくろてつさんと約束したので仕事をせずに、自分の時間だけに使いました。家のこともしっかり出来たので、今日は朝から鮭を焼く余裕までありました。やはり朝食はしっかり取るべきですね。
 体調はその後いかがですか? 社内でも風邪をひいている社員が多いです。お忙しそうなので、こじらせないように気を付けてください」

 朝から鮭を焼く二十代独身男子。エンペラーさんは本当にスペックが高い。湯豆腐が好きだって言っていたし、和食派なのだろうか。ボクは特にこだわりはないけれど、朝は味噌汁があった方が目が覚めるような気がして好きだ。仕事の出来る人みたいだし、要領も良いのだろう。そんな彼が作った料理はきっとおいしいに違いない。
 エンペラーさんと呼べばいいのか赤司部長と呼べばいいのか分からないが、とにかく彼はボクが返信していないにも関わらずメッセージをくれた。さりげなくこちらの体調を気遣ってメッセージをくれるのが嬉しかったが、その度にどうしようもない罪悪感に苛まれる。日曜日の返信をしないまま、火曜日の帰宅後に新着メッセージを見た時には思わずベッドに倒れこんでしまった。

「どうしましょうか……」

 返信のアイコンを押し、メッセージの入力画面を表示するが内容は一向に浮かんでこない。カーソルが点滅する白い画面を見つめたまま、枕に顔を埋めた。
 エンペラーさんのことが気になっているから仕事にも集中できずにいる。そうすれば効率も下がるし、当然ミスも増える。昨日から仕事量の割に作業が進んでおらず、そんな自分がもどかしく腹が立った。そろそろ風邪で動けないから返信も出来ない体でいるのも厳しい。返信するか、このまま切ってしまうか。
 正直、エンペラーさんとお話するのはとても楽しいし、このままの関係を続けたい。些細なことを報告し合うのなんて彼女がいた時だってしていなかったし、そこまで筆まめではない自分がこまめに返信したり相手からの着信を心待ちにしたりすることなんて今までなかった。
 だが、相手はあの赤司部長だ。くろてつがボクだったとばれた時のことを考えると背筋が粟立つ。気まずい、気まずすぎる。どんな顔して毎日職場で会えば良いのだ。今後のことも考えたら、絶対に傷が浅い今のうちに切った方が良い。それは充分に理解している。

「……でも、ここで終わりにするのも嫌なんです」

 結局、この日もメッセージを返せずに終わった。



 火曜日のメッセージにも返信せず、土日が来て、日曜日の夜にはまた短いメッセージが来た。

「今週でくろてつさんに教えてもらった本を読み終えました。全てとても面白かったです。くろてつさんとは、本の趣味が合うようですね。
 体調はどうでしょうか。また、おすすめの本を教えて頂けたら嬉しいです」

 メッセージが来るのは嬉しいのに、胸が苦しい。彼に教えたい本はまだまだたくさんある。彼は繊細な文章の中にシニカルな表現があるのを好むから、その手の作家の本を引っ張り出してきたり未読のものを購入して読んでみたりしては、もうそれを彼に教えることが出来ない可能性にぶち当たってもがくのだ。
 もらったメッセージを何回も読み返しては返信画面を開き、結局は一文字も打てずにそのまま接続を切ってしまう。そんなことを繰り返して、もう水曜日、明日は年次書類の提出日である。
 ワーカホリックな彼は、今週もボクとの約束を守って土日は仕事をしていなかったのだろうか。少なくとも本を読む程度には自分の時間を持ってくれていたことだけは確かだ。
 今週、大切な書類の提出があるんです。君が「がんばって」って応援してくれていたあの仕事ですよ。
 ボクは君との約束を守れませんでした。先週今週はずっと仕事が捗らなくて、土日も家でパソコンと睨みあいっこをしていました。
 おすすめの本ならたくさんあります。おいしい湯豆腐の店も、お酒の店も調べました。エビスの赤だって一緒に飲みたい。
 とめどなく溢れる思考を持て余しながら画面をスクロールして、彼のホーム画面を見る。名前、エンペラー。性別、男。住所、東京。誕生日は、

「そうだ、十二月二十日だ」

 最初に確認した時にもうすぐ誕生日だと思ったことを思い出した。二十日、明日じゃないか。彼は一人きりのこの地で誕生日を迎える。本当だったら、ボクだってお祝いしてあげるつもりだった。きっと、彼は明日も変わらず仕事漬けで過ごすのだろう。ボクが残業して帰宅した時も彼はまだ残っていた。もしかしたら、日付が変わる瞬間もオフィスにいるのかもしれない。
 せめて、彼の誕生日を一番に祝いたい。時刻を確認すれば二十三時五十五分。あと五分で日付が変わる。急いでSNSを開き、彼のメッセージから返信画面に移動する。
 しばらく点滅するカーソルをしばらく見つめ散々悩んだ後、本当に伝えたい言葉だけを指先で入力していく。

「お誕生日おめでとうございます。あなたが幸せでありますように」

 それだけを入力して時計を確認すればジャスト零時だった。震える指で送信ボタンをタップし、画面を額に付けて祈るようにメッセージを送った。
 彼が幸せでありますように。
 彼に嘘を吐いたボクだが、これだけは嘘いつわりのない本当の気持ちだった。



「……ない」

 赤司部長の誕生日、そして年次書類提出の当日を迎え、あとはプリントアウトするだけの状態にしておいたデータを呼び出す為にUSBを差し込む。リムーバブルディスクから該当ファイルを読み込もうとするが、画面ではUSBのフォーマットを求める警告文が出てくる。一度抜き差しし、もう一度試すが結果は同じだった。
 血の気が引いていく。そうだ、バックアップをとってあったはずだ。だが、最後にとったのは確か先週の金曜日の終業後、その後進めたり手直ししたりした部分も多いから、残っているデータの完成度は八割と言ったところか。残り二割を今日中にやり直すのはかなりきつい。

「黒子、年次は出来ているか」

 感情が表情には出ないタイプではあるが、思考が読み取れる疑惑のある部長にはボクが慌てているのが分かってしまっていたのかもしれない。普段こちらの席には来ない部長が、わざわざボクのデスクにまで確認を取りに来た。素直に報告するのが一番なのだが、バックアップを取っていなかった自分が悪いだけに口にするには勇気がいる。

「すみません、データが壊れてしまったようで……。失われた部分をやり直すのに今日一日はかかりそうです」
「バックアップは?」
「途中までしかとっていませんでした。申し訳ございません」
「今日中には完成させられるんだな」
「はい、必ず」
「……わかった。そのUSB、一応渡してもらっても良いか」

 大体のデータもどこに何の資料があるのかも分かっている。少し時間はかかるかもしれないが、今日中に終わらせることが出来ない量ではない。今日の分の仕事は全て明日に回すことになるが致し方ない。
 よし、と小さく呟いてパソコンに向かった。二週間以上かけてまとめた書類だ、納得できる形で提出したい。ひたすらに指を動かして、最中に取っていたメモの類も引っ張り出して画面と睨みあう。空腹感は感じるが、昼食を取る余裕もなかった。



 同僚たちが次々と帰宅していき、節電でオフィス内の電気が消える。自分の周りだけを照らす少しばかり心許無い明かりの下、夢中でデータを見つめた。あと少し、ここの数字を確認出来ればもう終わりだ。

「九月、十月、十一月……と、これで終わりだ」

 最後のエンターキーを弾くように叩き、すぐさま上書き保存を行う。

「終わったー……」

 椅子の背もたれに体重を預け、思い切り背伸びをすると身体中がばきばきと音を立てた。時計を見ればもう二十三時三十分を回っている。終電には間に合いそうだ、良かった。あとはデータを送信して、プリントアウトしたものを部長に提出すればいい。印刷ボタンを押して目頭を揉んでいると、不意にこつんと軽い音がする。気配に振り向けば、部長がコーヒーをデスクの上に置いてくれていた。

「終わったのか」
「はい、なんとか……」
「お疲れ様」

 渡されたコーヒーを礼を言って受け取り、口をつける。乾いた喉に苦みが染み込んだ。
 これ、と言って何かを差し出され、反射的に手を出すとてのひらの上にUSBを落とされる。今朝データが飛んだ、ボクのもののようだった。

「一応そっちのデータも復元しておいた」
「ありがとうございます」
「間に合ったから不要だったようだがな。復元に時間がかかって出来たのがさっきだ」
「ご迷惑おかけしました、申し訳ございません」
「気にするな。部下のフォローも上司の仕事だからな」

 そう言って笑う彼はやはり綺麗だった。この時間まで働きづめで疲れていない筈がないのに、朝の清潔なままの部長だ。静謐で凛々しくて、近寄りがたささえ感じる彼のままだ。
 部長を見ていて、唐突に今日が彼の誕生日であることを思い出した。誕生日も仕事漬けなのだろうとは思っていたが、それはまさか自分のせいだとは思いもしなかった。申し訳ない気持ちが更に増幅する。

「……部長、今日お誕生日なのに」

その瞬間、それが脳みそを通す前にぽろりと言葉になって零れ落ちる。しまった、と後悔した時にはもう遅い。猫目を少し見開いてこちらを見る部長の顔をまともに見ることが出来なかった。

「よく知っているな」
「あ、はい、……経理の女の子たちが言っていましたから。部長、女の子に人気があるんですね」

 いつもよりも饒舌に言葉を重ねてなんとか取り繕う。内心ばれはしないかとひやひやしたが、部長はそうか、と納得してくれた様子だ。気付かれないように小さくため息を吐いた。

「お誕生日なのに、こんな時間まで本当にすみません」
「構わないさ。僕も仕事があったんだ」

 そう言うと、彼は椅子に座ったボクの頭をわしわしと撫でた。思いの外高い体温に、心の奥の柔らかい部分がほんのりと温かくなるのを感じる。乱暴に見えるその手つきは優しくて、厳しさだけが際立つ彼の優しさを垣間見た気がした。

「お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう。祝ってくれたのはお前で二人目だよ」
「…そうですか」
「京都にいる母親と、お前だけだ」
「え、でも、」

 開きかけた口を慌てて閉じる。くろてつとして送ったあのメッセージは届いていないのだろうか。複雑な気持ちで彼を見上げると、まるで悪戯が成功した子どものような表情で笑いを噛み堪える猫目と視線が絡んだ。

「どうしたんですか?」
「いや、そう言えばもう一人祝ってくれた人間がいたよ。でもまぁ、彼をいれても実質は二人なんだが」
「は?」

 部長が何を言っているのか全く理解出来ずに間抜けな声が漏れた。それをきっかけに、彼は耐えきれずに噴きだして顔を背けて肩を震わせている。こんな風に感情を露骨に出している部長を見るのは初めてでそれにも驚いたのだが、何故自分がこんなに笑われているのかが理解出来ない。
 対応に困りあの、と声を掛けると、悪い悪いと然して悪いとも思ってないような軽い口調で謝られた。

「気にするな。今日は疲れただろう、もう帰ると良い。印刷した書類は僕が明日チェックするから」
「はい。部長はまだ帰られないのですか」
「僕はもう少しだけやることがあるんだ。気にしないで帰ってくれ」

 そう言うと強引に会話を切り上げて、後ろ手で手を振りながら部長は自分のデスクへと戻っていく。
 その背中にお疲れ様でした、と頭を下げると、彼は少しだけこちらを振り返り目を細めた。

「お疲れ様、くろてつさん」



 人のまばらな駅のホームを走り、終電に飛び乗る。乗り込んだ瞬間に背後でドアがしまり、そのドアに背中を持たれ掛けさせながら肩で息をした。
 今日は一日いろいろなことがあった。疲れたが、どうにか書類を提出出来て良かった。部長の意外な表情も見ることが出来たし、直接誕生日を祝うこともできた。
 その時、何かがボクの中で引っ掛かる。凄く小さなことだけど、でも確かに感じる違和感。その正体がなんだろうと考えているうちに最寄り駅に到着する。改札を出て歩いている間もその違和感は消えず、喉にささった魚の骨のような居心地の悪さをボクに与えた。
 家に着いて玄関に入り施錠した瞬間、携帯の着信が鳴り響く。携帯を確認すると件のSNSからのメールで、いつものようにURLをタップし受信メッセージを開いた。

「今度の土曜日に湯豆腐を食べに行きませんか、くろてつさん?」

 彼にしては珍しい、たった一文のメールだったが、それを読んだ瞬間にその文章が赤司部長の音声で再現される。

『お疲れ様、くろてつさん』

「……あぁっ!」

 気付いた瞬間叫んだ言葉に、反射的に口を覆う。時間が時間だ、大声を出してはご近所迷惑になる。唐突に訪れた未曾有の衝撃に、大声での放出を許されなかった身体はその場にへたり込むことしか出来なかった。

「なんでボクのハンネ知ってるんですか、部長……」

 その真実を確かめる為、ボクは一文のメッセージに返信を打ち始めるのだった。


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