黒バス | ナノ






 そんなこんなで結局この土日だけで、今まで空だったメールボックスに八通のメッセージが溜まった。エンペラーさんのレスポンスはかなり早い。メッセージの内容も読んでいて楽しかったり気を遣ってくれているのが伝わって来たりして、彼の人となりが伺いしれた。きっと、頭の回転の速い優しい人なのだろう。彼とのメッセージのやり取りは楽しかった。
 互いに読んだ本の感想を送り合って、また月曜日から仕事を頑張ろうと励まし合って、夜が明ける。二日ぶりの出勤にだがしかし、いつもよりも心も身体も軽いように感じた。

「黒子、ちょっと来てくれ」

 いつもよりも心も体も軽いように感じていたのが嘘のように緊張が走る。出勤して一番に声を掛けてきたのは赤司部長で、反射的に身体が強張る。パブロフの犬状態だ。
 緊張を気取られないように無表情を装って部長のデスクの前まで行くと、一束の資料を渡された。

「次の年次資料のまとめ、お前に頼もうと思う」
「ボクですか? これ、いつも課長クラスの方がやっていた仕事ですが」
「別に役職者じゃないと出来ない仕事でもないだろう。それに、お前なら出来るさ」

 初めて部長に掛けられたポジティブな言葉に軽く目を見開いて彼を見つめると、にっこりと微笑まれた。

「とりあえず来週中に一度まとめてくれ」

 あの鬼の部長でもこんな表情が出来るのか。初めて見た彼の笑顔は、驚くくらい穏やかなものだった。職場ではビジネスライクな対応が多く、理不尽なことは言わないが基準が厳しく歯に衣着せぬ言い方をする人だ。自分にも厳しいが部下にも厳しい。そんな彼の初めて見る笑顔に不覚にも胸がときめいていしまった。
 近寄りがたさが天井突破している彼だが、見目は麗しいのだ。鮮やかな赤い髪に色の異なる双眸は猫のように鋭いが大きさがあるので少しだけ幼く見える。目が印象的な以外はパーツに大きな特徴はないのだが、その配置が絶妙に整っている。正しく置かれたそのバランスは美しく、鬼の上司と呼ばれていなければ女子社員が放っておかないだろうことが容易に想像できる。
 注意しか受けたことのない相手からの初めての信頼の言葉に胸を弾ませながら、はい、と歯切れよく返事をして自分の席に戻った。

「聞いてください。厳しいことで有名で、ボクも怒られたことしかない上司に今日初めて褒められたんです。
 正確に言うと褒められたのではなく、『お前になら出来る』といつもは上の人間しかしていなかった仕事を振られただけなのですが、それでもやはり嬉しかったです。とにかく仕事には厳しい人なので、彼の口からそう言ってもらえるとは思っていませんでした。
 嬉しかったので、今日の晩酌は奮発してエビスの赤です」

 まだメッセージを送り始めて三日目だが、送受信したメッセージが多いせいか実際の期間よりもずっと長く彼とやり取りとしている気がする。
 いつもならば疲れ果てて吊革につかまったまま船を漕いでいる帰宅時、携帯を取り出して今朝来ていたエンペラーさんからのメッセージに返信を打つ。こんな些細なことをわざわざ誰かに報告するのはなんだかとても新鮮だった。
 コンビニで弁当を買って帰宅、着替えようとコートを脱いでポケットから携帯を取り出して着信がないか確認する。まだメッセージを送ってから三十分と経っていない。さすがにまだ返信はないか、と携帯を充電器にさしながら、顔も知らない、交流を始めてまだ三日目の相手に何を期待しているのかとはっと我に返った。
 様子がおかしければすぐに切って無視して何事もなかったことにしようと考えていたし、今だって彼がおかしな人間であればすぐにでも交流をやめるべきだと思っている。だけど、今のボクは彼からの言葉を待ち望んでいるのだ。
 ネットだけで繋がった友人、それは初めての関係性で、ここ最近は友人たちとすらろくに連絡をとっていなかったから人の温もりに飢えていたのかもしれない。初めての経験に浮足立っているのかもしれない。気を付けなければ、そうやって自分を戒めてスーツを脱ぐ。
 それなのに、先にシャワーを浴びてしまおうとバスタオルと着替えを用意している最中にメルマガの配信で鳴りだした携帯に真っ先に反応してしまった自分が恨めしい。土日のペースでいくと、もうそろそろ返信が来てもおかしくないのだが、今日は月曜日だ。仕事人間だと言う彼のことだ、きっとまだオフィスにいるのかもしれない。そう言えば、退勤時に赤司部長がまだ残っていたことを思い出した。人にも厳しいが、自分にはもっと厳しく誰よりも仕事をしている。だからこそ、鬼のような上司ではあるが部下がついてくるのだ。
 そんなことを考えていた時、待ちわびていたメールの着信音が鳴る。すぐにメール画面を開けば案の定あのSNSからのメッセージ着信の知らせだった。

「良かったですね。きっとその鬼部長も、くろてつさんの頑張りを見ていたんだと思います。じゃないと、君なら出来るなんて言えませんからね。
 僕はようやくやりたい仕事が一段落して今から帰宅します。仕事ばかりじゃいけないって土日でお話していたのに、平日になるとやはり仕事に集中してしまいます。
 でも今日はくろてつさんのお祝いに便乗して、僕もエビスにしようかな。
 くろてつさんは結構お酒を飲まれるんですか? 僕は好きではあるのですが、一人で飲むのも味気ないので付き合い程度にしか飲みません」

 やっぱりまだ職場にいた。予想通りの彼に苦笑を洩らしながらメッセージを読み終える。まだ彼とのやり取りを始めて三日目、知っているのは彼が仕事人間であること、趣味と学生時代の部活に本の嗜好、三月までは京都にいたこと、休日も家で仕事をしていて家事をして終わること、それに酒は好きだが付き合い程度でしか飲まないこと、このくらいだ。

「エンペラーさん、お酒が好きなんですね……」

 一つずつ彼に関する新しい情報を知る度に、想像上のエンペラーさん像が再構築されていく。見た目については何一つ話しを聞いていないが、きっと真面目な彼のことだ。短めに切り揃えられた髪で、バスケ部だと言っていたから背も高いんだろう。頭の中にスポーツマンらしい体躯の温厚そうな男性を思い浮かべる。

「エンペラーさんにそんなに喜んでもらえるとは思いませんでした。ありがとうございます。一緒にエビスで乾杯ですね。(笑)
 平日に仕事漬けになるのは仕方ないですね……。ボクも今日はのんびりエビスを飲んでいますが、明日からは帰宅後も資料の整理に追われそうです。
 でも先日エンペラーさんに偉そうに言ってしまった手前、土日はしっかり休もうと思います。メリハリが大切です。
 今から何をしようか考えて、それを励みに平日を乗り切ります」

 買ってきたエビス二缶をちびちび飲みながらゆっくりと返信を打つ。彼への返信の内容を考えるのは楽しい。自分が何を感じたか、何を伝えようか。それをじっくりと吟味しながら慣れないスマホで文面を入力していくものだから、いつものパソコンメールよりもかなり遅いスピードでの作成になってしまう。
 もともと酒に強い体質ではない。そうこうしているうちに段々眠気が襲ってきて、朦朧としだした意識を叱咤してなんとかメッセージを送信したところで記憶が途切れた。



「一緒に乾杯、良いですね。くろてつさんとは気が合いそうな気がしていますし、東京ではほとんど友人がいないので、仕事関係の方以外と飲みに行けるのは久しぶりです。
 では僕も、くろてつさんとお会いできる土曜日を楽しみにして平日で仕事をやっつけようと思います。
 時間は十九時からで良いでしょうか? お店は詳しくはないのですが、どこかおすすめのお店はありますか? 食べたいものがあるのならば、それで調べておきます」

 どうやらいつの間にか寝落ちていたらしい。手に携帯を握りしめたままベッドで横になっていた。アラームをセットしている時間まであと十分、二度寝するにはいささか短すぎる。そう思いながら携帯を見ると、メッセージ送信完了のページが開かれたままになっていた。返信が来ているかな、と開いた受信ボックスの最新メッセージを確認して一気に覚醒した。
 くろてつさんとお会いできる土曜日を楽しみにして、ってなんだこれは。確かに一緒に乾杯ですね(笑)と打った記憶はあるが、土曜日飲みに行こうだなんて誘った覚えはない。
 慌てて送信ボックスの最新を確認してみると、確かに入力した覚えのある文面に、一文だけが追加されていた。

「宜しければ、土曜日一緒に飲みに行きませんか?」

 頭を抱えた。なんだ、これは。文脈がおかしくはないか。繋がっているようで微妙に繋がっていない。誘いが唐突すぎる。まだ知りあって一週間と経っていない相手と二人で飲みに行くだなんて、ボクのこれまでの行動パターンにはなかった。
 と、ひとしきり取り乱してみたが、慌てたところで仕方がない。エンペラーさんには素直に好感が持てるし、男女でもあるまいし二人で飲みに行って何か起こることもあるまい。ボクだって最近は忙殺されていて、友人と飲みに出かけていなかった。これは友人を増やすチャンスだと捉えよう。確か、彼の誕生日が近かった筈だ。その祝いも兼ねようではないか。
 見た目によらず男らしいと友人たちによく評価されるその性質を存分に発揮し、十分間で踏ん切りをつけたボクは出社の準備を始める。今日の昼休みか、帰って来てからでも返事を打とう。
 エンペラーさんは恐らくこちらの店をよく知らない。ボクも詳しい訳ではないが、店はボクが探した方が良いだろう。食べたいものは彼に合わせる。彼は何が好きなんだろうか。

「黒子、湯豆腐のおいしい店を知らないか」

 年次の資料について確認が二三あり、赤司部長に尋ね終わった直後、デスクに戻ろうとしたボクを引き止めたその言葉はあまりに唐突すぎた。

「は?」
「湯豆腐だ。冷奴でもいい」
「……部長は豆腐がお好きなんですか?」
「ああ。豆腐以外でもいい。どこか料理と酒のおいしい店があったら教えて欲しんだが」
「すみません、ボクもあまりグルメではなくて……」
「そうか。引き止めて悪かったな」

 そう言うと部長はすぐに手元の資料に視線を戻してしまい、ボクはその場に止まる訳にも行かず軽く頭を下げてデスクに戻った。
 そうか、部長は豆腐が好きなのか。寒いから湯豆腐は良いかもしれない。三大欲求全て関係ありませんと言う雰囲気の部長の思いがけない好物に、気分はすっかり湯豆腐に傾いてしまった。
 エンペラーさんには湯豆腐で提案してみようかな。京都に居たんだし、彼も案外好きかも知れない。



 予想通り、火曜日からは仕事漬けの毎日になった。過去の資料を読み漁って雛型を作り、今年の数字を調べて入力していく。これが言葉にすると簡単なのだが、量が量だけに結構な時間がかかりそうだ。去年までのデータ作成はかなりずさんだったようで、ところどころおかしい数字が出てきて、その度に確認を余儀なくされる。部長が今年から上役にやらせないことにしたのはこう言うことだったのだろうか。いずれにせよ、任せて貰えたのだからちゃんとした形を作りたい。
 そうするとエンペラーさんとのメッセージのやり取りも自然と減った。減ったとは言っても土日に比べれば、と言うだけで、毎日必ず一往復のやり取りはしている。そして、そのやり取りが日々の楽しみになっているのもまた事実であった。
 火曜日に部長の唐突に投げかけられた質問以降、湯豆腐が無性に食べたくなっていたので土曜日のお店で湯豆腐を提案したところ、二つ返事でオーケーを貰えた。エンペラーさんも湯豆腐が大好物らしい。さすが京都人。
 調べたお店はグルメサイトの豆腐料理部門で一番評価の高い店だ。その分お値段も多少はるが、おいしい料理で彼と酒が飲めるのならば安いものである。
 そうして日々の仕事の状況報告や土曜日の話を詰めるやり取りをしているうちに、あっという間に土曜日当日になった。
 彼との約束を守るべく、今日は仕事に手を付けていない。八時に起きて掃除洗濯を済ませ、食料の買い出しに行く。平日は料理どころではないから、冷凍できる総菜をいくつか作った。これで明日はアイロン掛けをすればいいだけだ。今日は気兼ねなく酒を飲んで、明日はゆっくりと本でも読もう。
 家のことを済ませれば、あっという間に夕方になった。タンスから適当なシャツを出して羽織る。夜は冷える、温かくしていこう。コートにマフラーを巻き、外に出た。鞄の中には彼への誕生日プレゼントで好きだと言っていた作家の新刊が入っている。
 十二月の七時はもう真っ暗で、太陽の名残すらない。顔面に噴きつける北風は突き刺すような冷たさで、風が吹く度に身体を縮めるから血液の循環が悪くなる。ぐるぐるに巻いたマフラーに顔を半分埋めて、約束の場所を目指して足を進めた。
 待ち合わせは店の最寄り駅の南改札口だ。時計を確認すれば午後六時四十五分、待ち合わせ時間は七時だから少しばかり早くついてしまった。今日の服装を伝えておこうとSNSを開くと、同時にメッセージを受信する。少しばかりの緊張をもってそのメッセージを開いた。

「こんばんは。少し早いですが駅に着きましたので、お待ちしています。
 紺のコートに茶色の革靴で、キヨスク前の柱の時計の下に立っています。赤いスマートフォンを持っているので、それが目印になるかと思います。
くろてつさんはゆっくり来てくださいね」

 そのメッセージを受けて周囲を見渡す。南改札口のキオスクはすぐに見つかった。その前の柱は二本あるが、時計が付いているのは一本だけだ。時計から真っ直ぐに視線をおろしたところで、見知った顔が視界に入り思考が停止した。
 鮮やかな赤い髪に色の異なる双眸は猫のように鋭いが大きさがあるので少しだけ幼く見える。目が印象的な以外はパーツに大きな特徴はないのだが、その配置が絶妙に整っている。正しく置かれたそのバランスは美しく、鬼の上司と呼ばれていなければ女子社員が放っておかないだろうことが容易に想像できる。
 何かの間違いだろうかと目を擦るが、現実は何も変わらない。時計の下に立っていたのは、我が部の鬼部長こと、赤司征十郎その人であった。
 いや、たまたま彼がここにいただけかもしれない。世間は狭い、偶然だってあり得る。そう思っていたボクの目に、彼が持つ赤いスマートフォンが入りボクはその場にひざから崩れ落ちそうになった。
 今までのエンペラーさんのやり取りが脳裏を駆け巡る。ワーカホリック、三月まで京都にいて四月から東京に赴任してきた、豆腐が好き、そうだ、共通点はあったのだ。どうしようどうしようと脳みそがぐるぐる動く。見た目によらず男らしいと友人たちによく評価されるその性質を今こそフルに発揮するべきなのだが、あまりにもあまりな展開に思考が追い付かない。時計を見ればもう一、二分で約束の七時になる。
 ここで部長と顔を合わすのはあまりに気まずい。どうするか、どう対応することがベストか。六十秒間考えに考え抜いて、SNSのメッセージ画面を開いた。

「すみません、風邪を引いてしまい動けそうにありません。本当に申し訳ないのですが、今日はキャンセルさせていただけますでしょうか」

 それを打つのが精一杯だった。
 これ以上ここにいて赤司部長に見つかったらまずい。返信を待たずに、ボクはその場を離れた。



 気分が重い、最悪だ。

「お加減いかがですか? 忙しい時期ですから、どうぞ無理はなさらずにゆっくり休んで早く治してください。
 風邪が治ったらまた改めて飲みに行きましょう」

 何度も読み返したメッセージを読み直して、深いため息を吐く。咄嗟に嘘を吐いて不測の事態を乗り切ったボクは、今激しい罪悪感に苛まれてベッドに突っ伏していた。具合は悪くないが、降下した気分のせいで動けなくて、嘘から出たまこととはまさにこのことだと自己嫌悪を紛らわす為にどうでもいいことを考えてみる。
 嘘を吐くのも逃げるのも嫌いだ。存在感が薄くて、いることさえ忘れられることが多いが、それに反して存外に強い自己主張に友人たちから失笑を買うこともあった。曲がったことが嫌いで、まっすぐに生きてきたつもりだ。
 それが、嘘を吐いて約束のドタキャンまでして、相手に心配をかけている。ボクだって本当に楽しみにしていたのだ。久しぶりの仕事関係以外の飲みだったし、何よりも付き合いこそ短いがエンペラーさんとのやりとりは楽しかった。
 純粋に心配してくれているのがまた申し訳なくて、返信したいとは思うのだが嘘に嘘を重ねるのが嫌でそれも躊躇われた。風邪で動くことすら出来ないことになっているのだ、少しくらい返信が遅れても不審には思われないだろう。まぁ、そもそも風邪などひいていないのだが。
 今日は雲が厚く月明かりも窓からは差し込んで来ない。電気を点けていない真っ暗な部屋の中で一人、何度目か分からないため息を吐いた。


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