黒バス | ナノ






「おかえりなさい、テツヤ様」

 深々と頭を下げる赤司の口調は、今朝咎める前のものに戻っていた。諌めるように軽く睨みつければ、赤司は肩を竦めて眉尻を下げる。

「そう怒らないでください。僕はテツヤ様の執事なのですから」
「……そんなこと望んでいません」

 何だか今日は酷く疲れた。好かない男との無駄な言葉の応酬の所為かも知れないし、ただ単に赤司以外の人間と話すのが久しぶりだったから無意識のうちに気を張っていたのかもしれない。
 普段は気丈でいようと幾重にも重ねた薄布の中で息を殺すように生きている黒子ではあるが、一度糸が切れてしまえばあとは坂道を転がる勢いで甘え癖が出てしまう。燕尾服の肩に顔をつけて赤司の細い腰に腕を回すと、すんと鼻を鳴らした。嗅ぎなれた清廉な匂いに、安心感で満たされる。

「どうしたんだ、今日は随分甘ったれだな」

 そんな時、赤司は敬語を使うことを止めて黒子が望むままに彼を甘やかす。彼の声色に慈愛が滲んだのを確認した黒子は、一層力を込めて赤司に抱きついた。

「何もありません」
「何もないのに甘えるのか。オレの主は高校生にもなって随分と子どもっぽいな」
「子どもでも良い。君がいてくれるならボクは他に何もいらない」

 黒子は子どもの頃から「影」だった。
 たくさんの分家を取りまとめる黒子家に長男として産まれ、その瞬間に将来はこの家を継ぐことを義務付けられた。家に出入りする多くの大人の視線、取引先の人間のおべっか、それらに埋もれていく毎日は息苦しくて堪らなかった。
 物心つく前から、黒子は本能的に自分を守るために気配を消すことを覚えた。それは黒子を身軽にさせたが、同時に両親に黒子を諦めさせることにも成功してしまった。
 黒子家の跡取り息子の癖に出来が悪い。人徳もない。華もない。こんな子、何の役に立つって言うの。黒子は大人しくて努めて鈍感でいようとはしていたが、頭の良い子だった。言葉にはされなくとも、大人たちの感情は肌を通じて感じることが出来る。そんな悪意と戦っていながら自分自身を守るために、自分自身と外界を遮る薄布の枚数をどんどん増やしていった。
 ボクはこの世界の人間じゃない。彼等が見ている黒子テツヤはボクとは別の人間だ。
 そうしているうちに、大人たちは黒子をいない人間として扱うようになった。否、黒子は忘れられてしまったのだ。名前を呼ばれない、目も合わない。それは望んでいた筈の事態なのに、辛くて悲しくて、黒子は毎日自室にこもって泣き続けた。

「赤司征十郎です。初めまして」

 そんな時、分家の息子だと紹介されたのが赤司だった。
 黒子とは違い、彼は優秀な子どもだと大人たちにもてはやされていた。十年に一度の天才だと噂される彼は、子どもの目から見ても纏う空気が違って見えたのを覚えている。幼い顔に大人びた表情を貼り付けて手を差し出す彼は、この時はまだ親戚の子どもでしかなかった。
 初めて会った日から、赤司は頻繁に黒子に会いに来るようになった。分家の中でも頭角を現していた赤司家の期待の次期当主だ、何かと不安要素ばかりが囁かれる黒子の嫡男の補佐をさせるつもりで付き従わせていたのだろう。
 赤司はいつも貼り付けたような笑顔を浮かべていた。形は確かに子どもなのに、その中身は狡猾な大人のようで、黒子は最初、赤司のことを好きになることが出来なかった。大人たちの期待に負けずに一人で立って息をしている赤司が眩しくて羨ましくて、妬ましかった。
 だが、一緒にいれば情が湧いてくるのが人間と言うもので、一カ月、二か月と共に時間を過ごすうちに、黒子は赤司の真面目で不器用で生きるのが下手くそなところを好ましく感じるようになる。どれも世間の彼への評価とはかけ離れたものではあったが、黒子には赤司がそう見えていたし、実際今となってはそれが正解だったとさえ思う。
 赤司は頭の良い子どもだった。望まれていることを感じ取ってそれを体現することが出来たから、周囲の彼への要求はそのレベルをどんどん上げていく。きっとそれは、年端もいかない子どもにとって苦痛でしかなかっただろうに赤司はそれを微塵も感じさせない作られた子どもらしさで周囲に愛されていた。そんな彼が、黒子は不憫で愛しくて仕方がなかった。
 幼い自我が、行く末の不安さに大声を出して泣き叫びたいのを声を殺して堪えている。それが、黒子の赤司への好意の第一歩だった。

「征十郎君、ボクは君とお友達になりたいのです」

 いつかの冬、庭に忍び込んだ猫が凍死しているのを見つけて二人で墓を作ってやった後のことだ。庭に埋めたら大人たちに怒られるからと、裏山に猫を埋めた二人は無言で帰路につく。しんしんと降り続く雪が、小さな音は全て飲み込んでしまっているかのような空間で、黒子は唐突にそう呟いた。
 隣を歩いていた赤司がふと歩みを止め、不思議に思った黒子が立ち止まって振り向くと、赤司は今にも泣き出しそうな顔をしながら無理矢理に笑顔を作ろうとしていて、それが辛くて堪らなくて愛しくて、これからは赤司の代わりに自分が泣こうと決めたのはこの時だった。

「テツヤ様、夕飯の準備が整いましたので起きてください」

 小さくゆすぶられてゆっくりと重い瞼を開けると、赤司のシルエットが目に入る。室内灯で逆光になり表情は見えなくて、そこに記憶の中の彼が重なる。
 いつの間に眠っていたのだろうか、居間のソファから身を起こすと、毛足の長いブランケットがはらりと落ちる。赤司がかけてくれたものなのだろうそれを口元まで引き上げて、黒子はふわりと笑った。



「さぼるなんて黒子クン不良っスね」

 体育の時間、チームを分ける競技は居場所がなく、黒子は必然的に見学していることが多くなっていた。
 夏の名残が残る日差しは肌に温く絡みつくが、風が吹けばひんやりとそれを取り除いてくれる。秋はそう遠くない所まで来ていた。
 校舎の壁に凭れかかって、見るでもなくボールを蹴っている同級生を眺めていると、からかいを含んだ声を投げかけられる。視線を寄越すまでもない。この声の持ち主は、最近なにかにつけて黒子に絡んできては嫌味を飛ばし、黒子が不機嫌になるのを見るのを喜んでいるような性悪だ。どうせ眼に映すのならば美しいものの方が良い。そう言った時に返された「オレ以上に美しいものなんてそうそうないでしょ」と言う言葉が脳裏に蘇った。

「人気者の黄瀬君がこんな所で何をしているのですか」
「オレは体調不良で見学。不良の黒子クンみたいに毎回理由なく休んでるんじゃないんスわ」

 嫌みのつもりで吐き捨てた言葉は、彼に些細なダメージすらも与えられずにはらはらと消えた。
 黒子に対して悪意のある言葉ばかりを投げかけてくる癖に、黄瀬はやたらと黒子に構いたがった。綺麗な顔に意地の悪い笑みを浮かべて、毒のある言葉を投げ捨てる。悪意には免疫があるが、こうも絡まれるとさすがに不愉快だ。
 自分が世界で一番不幸だと思っている彼に、世間に本性を隠す為のストレスのはけ口にでも認定されてしまったのだろうか。不愉快極まりない話しである。生産性のない言葉の応酬は吐き気を催すほどだ。

「嫌味を言うなら余所へ行ってくれませんか。不愉快です」
「黒子クンでも不愉快になることなんかあるんだ? いっつも能面みたいな顔してるから、感情なんてないんだと思ってた」

 彼の前では殊更無感情無表情を貫いている。彼がそう言ってからからと笑う声が、嫌に耳についた。この男の笑い方は本当に好かない。耳障りなその声を聞く度に、声を上げずに静かに笑う赤司が恋しくて堪らなくなった。
 あの小さな屋敷で二人だけで生きていたい。他の人間なんて必要ないのに、どうしてこんな低俗な人種と肩を並べなければいけないのか。そう考えるごとに、黒子の気持ちは暗く沈んでいく。

「ボクでストレス発散するの、やめてくれませんか」
「やだなぁ、人聞きの悪い。友達と話しをしているだけじゃないっスか」
「君と友達になった覚えはありませんが」
「ああ、黒子クンって友達なんていりませんって真顔で言っちゃうタイプっスよね。そんな不器用で生き辛くないの? もうちょっと器用に生きなよ」

 けたけたと笑う彼の声が頭に響く。先ほど感じた吐き気が悪化の一途をたどり、頭が鈍く痛む。地面が揺れて、その振動で酔いそうだ。それでもここで黙れば、黄瀬の言葉に負けてしまう気がして口を開く。

「君みたいにですか」
「そうそう、オレみたいにフレキシブルに生きなよ。笑って媚び売っとけば言うこと聞いてくれるんだから、便利なもんでしょ、友達って」
「そんな友達、必要ありません」

 揺れる、揺れる、目が回って地面が揺れて吐き気がする。碌に思考を通さずに口から零れる言葉は、毛嫌いする相手に伝えるべきでない感情まで孕んで一人でに漏れ溢れる。
 苦しい時はいつも赤司が隣にいた。彼の前でだけ彼の分まで涙を流す黒子の手を握り、白いハンカチで優しく頬を拭ってくれた。

「ボクは、征十郎君がいれば、それで、」
「ちょっと、……黒子クン?」

 そう言ったのは無意識か、遠のいていく意識の中で、これでようやくくだらない言葉の応酬から逃れられると黒子は心底安堵したのだった。



 眼を覚ました時にまず見えたのは、いつもの見慣れた天井だった。
 覚醒しきらない脳みそで室内を見渡せば、そこは間違いなく自宅の自分の部屋だ。起動に時間がかかるパーソナルコンピューターのようにじりじりと記憶が蘇っていく。そうだ、自分は確か体育の見学中だった筈だ。黄瀬との会話の途中で意識が遠くなり、すぐにでも彼との非生産的な会話から逃げたくて進んで意識を手放したのだった。
 狭くなる視界の中で、黄瀬が端麗な顔を驚きで歪めているのを見たのが最後で、そこまでは覚えている。周囲の人間の前では貼り付けた作り笑いしかしないのに、黒子の前では底意地の悪さが滲み出ている薄ら笑いを浮かべながら人生についてご高説を与えてくださる黄瀬のその表情を見て、少しだけ胸がすいたのも覚えている。
 枕元に置かれた水差しには輪切りにしたレモンが浮かんでいた。それを見て初めて喉の渇きを自覚して、ガラスのコップに半分だけ水を注いで一気に飲み干す。微かに舌を刺激するレモンの酸味が心地よかった。
 室内は窓から差し込む夕日で橙色に染まっている。まだ薄暗さは感じないが、この色では文字を読むのはやや難しい。時計を見れば、もうとっくに学校の終わっている時間だった。

「ああ、起きてらしたのですか」
「征十郎君、ノックしてくださいって言っているじゃないですか」

 音もなくドアが開き、赤司が安堵したようにそう言う。それに対して黒子はむっとした表情を隠すことなく答えた。

「起こしてはいけないと思ったので。そんなことより、お加減はいかがですか」

 赤司にとって主のプライバシーは、主の健康に比べれば「そんなこと」程度であるらしい。それが酷く赤司らしくて、黒子は先ほどの苛立ちなどすぐに忘れてしまった。ベッド脇に立つ赤司の顔を見る為に身体を起こし、彼に笑顔を向けて大丈夫です、と答えると、赤司も穏やかに笑う。
 二人しかいないこの屋敷では、二人が動きを止めれば聞こえるのは時計の秒針が進む音だけで、橙に長く伸びる影がまるで二人の時間を縫いつけてしまったかのように穏やかで静かな時間が頭上を通り過ぎる。一秒ごとに刻まれる秒針の音が、心地よく耳に響いた。

「もう大丈夫です」
「それは良かった。心配したのですよ」

 言いながら水差しの水を取り換える赤司の手つきを見守る。彼の動きには無駄が一切ない。余韻を残すことはあるが、そこに無意味なものは何一つないのだ。だからこそ彼の動きは人を惹きつけたし、見ているだけで不思議な心地にさせられた。
 見られることに慣れている彼は、黒子の視線に気が付いていても特に何かを尋ねることはしない。その視線を受け流して、満足そうな横顔で薄らと微笑む。穴があくほど見つめれば、呆れたような笑みを向けてくれる。それだけで黒子は酷く安心した。

「もう少ししたら夕食をご用意いたします」
「はい、お願いします」

 言葉少なに会話を続けていたその時、来訪者を告げるチャイムが鳴った。この町で親しくしている者がいないこの家のチャイムが鳴ることは非常に珍しい。一体誰かと顔を合わせ、赤司は一礼をしてから部屋を出た。
 大方、セールスの類だろう。それならば赤司がすぐに追い返してくれる。体調はもうすっかり良くなった。嫌な相手との会話が自分で思ったよりもストレスとなっていたのだろうか。黄瀬がいなければ、不快になることもない。増して、この屋敷で赤司と二人でいるのであれば尚更だ。

「テツヤ様、お客様がお見えです」
「え、客?」
「はい、ご学友とのことでしたが……」

 学友、その単語を耳にした途端、今しがた思い出していたばかりの人物の名前が頭をよぎる。

「……お引き取り頂いてください」
「それはひどいんじゃないっスかー?」

 からかうな声がしたかと思えば、いつの間にそこにいたのか、部屋のドアに背をあずけてにやにやと笑う金髪がまっすぐに黒子を見ていた。橙が次第に暗く翳っていく室内で、その明るい金髪だけが不自然に浮かんでいる。

「お客様、玄関でお待ちくださいますよう申し上げた筈ですが」
「黒子家のご子息ともあろう方が、見舞いに来た友人を門前払いとは狭量にもほどがあるってもんじゃないっスか」
「黄瀬君……、病人に負担をかけないよう気配りすら出来ないのですね。これだから成り金は」
「随分と口の悪い華族っスねぇ」

 あ、元華族か、と付け足された言葉に、上昇していた気分が下降の一途を辿る。心地好ささえ覚えていたのに、頭が鈍く痛み、視界がぐるりと回る。彼の蛇のような視線に絡まれている感覚に、手足が痺れた。

「黄瀬様、テツヤ様は病みあがりです。ご遠慮願えませんか」
「君、黒子クンの使用人サン? 随分若いっスね、同い年くらいかな……。それに、使用人にしてはやけに仕草が上品だ」
「……これ以上無礼なことをなさるようでしたら、こちらとしても黙ってはおれません」
「怖い顔しないでよ、やだなぁ」
「帰って、かえってくだ、さ」
「テツヤ様……?」

 視界が回る、回る。呼吸がしづらくて、息苦しい。必死で息を吸おうと口を開くが、上手く酸素を取り込めずに思考が霞む。身体がぐらりと傾いて、黒子はベッドに上半身を埋めた。

「テツヤ様、大丈夫です。落ち着いてください、聞こえますね」
「せいじゅ、ろくっ……、ひっ」

 生理的に溢れる涙で視界が白くぼやける。震える指先を宙に彷徨わせれば、すぐに大きさの変わらないてのひらに絡み取られた。その温度に安心して見上げれば、緩く微笑んだ赤司の表情をそこに認め、黒子は苦しげに肩を揺らしながらも笑みを返す。

「テツヤ、聞こえるな? 大丈夫、ボクがいるから。ゆっくり息をして」
「はぃっ……ひ、はぁ……」
「そう、上手だね。長く吐き出すんだ、そう、そうだよ」

 優しい声で優しく背中をさする感触に、次第に息苦しさが消えていく。痺れの残る手で赤司の手を握りしめながら、黒子は意識を手放した。

「……まだいらっしゃったのですか」
「何それ。客に対する言葉じゃないっスね」
「そもそもあなたは客ではないでしょう」
「招かれざる客ってとこっスかねぇ」

 底冷えするような冷え切った眼で、黄瀬を一瞥すると、赤司はすぐにその視線を黒子の寝顔に移す。慈愛を込めたその眼は、まるで母親に縋る子どものようであり、子どもを慈しむ母親のようでもあった。
 見られていることも構わずに、眠る黒子の髪を撫で一心に彼を見守る様は、誰がどう見ても使用人が主に向けるものではなかった。

「……まぁいいや。今日のところはお暇するっス」
「それは良かった。もういらっしゃらないでください」
「主人に似てきっつい執事サンっスね」

 自嘲気味に笑った黄瀬が後ろ手を振りながら部屋を出る。

「なーんか、欲しくなっちゃったかも」

 見送りもなく黒子邸の玄関を出た彼が呟いた言葉は、誰の耳にも届かなかった。


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