黒バス | ナノ






「庭の桔梗が花を咲かせました。後で何輪か摘んできましょう」

 そう言いながら髪を梳く赤司を、鏡越しに見つめた。同い年だと言うのに、随分と落ち着いて見える。元々彼はどちらかと言うと童顔で体型も黒子とさほど変わらず、幼い頃には兄弟と間違われることもあったのに、今では黒子と赤司を血縁だと思う者は少なくなった。
 柔らかい髪質のせいか毎朝重力に逆らって飛び跳ねる寝癖を直すのは、黒子専属の執事である赤司の仕事であった。蒸しタオルをラムネ色の柔らかい髪をあてて、ゆっくりと時間をかけて丁寧に梳いていく。それでも言うことを聞かない時は少しだけジェルを付けて撫でてやれば、いつも通りのまるくて形のよい頭に戻る。
 黒子はこの時間が大好きだった。一日が始まるのは辛い。一歩屋敷の外に出れば、謂れのない罵詈雑言と好奇の視線を一身に受けることになる。
 黒子の両親が事業に失敗して、夜逃げ同然にこの町に越してきたのは先月のことだ。黒子家は七代続いた地元の名家だったが、名を上げようと上京し、あっさりとそれに失敗した。元々は大地主であったが、上京と事業を起こす資金としてその殆どを売り払ってしまっていたので、借金返済後に手元に残った金はごくわずかだった。
 都会の高い物価に耐えられるはずも、また、幼い頃から贅沢三昧で過ごしてきた両親の安いプライドが世間から後ろ指を指されることを許すはずもなく、地元でも東京でもない、この小さな町に越してきたのだ。
 
「桔梗よりも椿の方が良いです」
「わがままを言わないでください。時期が違うでしょう」

 起きぬけで思考が回らないまま、思いついたことを口に出せば困ったように鏡の中の赤司が笑う。黒子は、彼のこの笑い方を好ましく思っていた。
 赤司家は黒子家の分家であった。だがしかし、近年はその勢力図が逆転しつつあり、黒子家が上京し事業に失敗してからはその立ち位置は完全に逆転してしまった。
 赤司家の現当主は非常に優秀な男であった。流行り好きの黒子の両親が土地を捨て、成功するかも分からないコンピューター関連の事業に手を出した際、その土地を買い取ったのがこの赤司家だった。
 京都のその土地は、今後都市開発が進みその価値が上がると噂されている。無計画にギャンブルに手を出した黒子家と違い、赤司家は手堅く土地を転がすことで儲けを出す道を選び、結果それが功を奏して今では地元で知らぬ者がいないほどの大地主となった。
その赤司家の嫡男だったのが、赤司征十郎である。
 この赤司征十郎と言う男、実に優秀な男であり小学生の身空で全国弁論大会で中学生を負かし一位を取った功績を残している。頭もよく、見目も麗しかったため、周囲からの期待も大きかった。だが、そんな彼が選んだのが本家である黒子家嫡男、黒子テツヤに仕える道だったのである。



 黒子テツヤと赤司征十郎は、本家と分家の身分の違いはあれど幼なじみとして共に成長した。
 分家の役割として本家嫡男の世話役を命じられた赤司は、つつがなくその役目を果たしていた。赤司征十郎は優秀だ。子どもだとは言え、言いつけられた仕事の一つや二つこなすことは彼にとって綿毛を吹き飛ばすことよりも容易い。
 物心ついた時から黒子についていた赤司は、彼が本家の人間として、全てを取り仕切る程の器ではないことにすぐに気が付いた。この子は、数多くの分家を従えるには優しすぎる。当主たるもの、時に非情でなくてはならない。血縁だって兄弟だってそんなことは関係ない。自分に利益がないのであれば切り捨てるべきだし、害するようならば処分しなければならない。そんなことは分家の身でも充分に承知していることだ。

「征十郎君、庭先で猫が死んでいたんです」

 そう言って動かない猫を抱えてはらはらと涙を流す黒子を、赤司は何の感情も込めずに見つめた。
 京都の冬は厳しい。外に出されていたならば、あんな小さな猫、死んで当然だろう。そんなことより、早く保健所に連絡してその猫を処分してもらわなければならない。
 そう頭では考えているのに、寒さに赤くなった白い頬を伝う水色の涙から目が離せない。大粒で零れ落ちるそれらが酷く甘そうに見えて、赤司はその時初めて自らの意志で彼に話しかけた。

「一緒にその猫を弔ってやりましょう」

 その言葉に振り返った黒子の眼の色に、悲しみ以外の色が混ざっていたのを赤司は未だに忘れられずにいる。



「テツヤ様、学校はいかがですか」

 黒子に新しいシャツを用意し、袖を通す手伝いをする。着替えくらい一人で出来るといつも抗議するのだが、それに対して赤司が首を縦に振ったことはない。曰く、これも執事の仕事の一つなのだそうだ。
 執事と言うものは主にとって影であり空気であって、生活の全てを把握されて当然の存在である。ノックをせずに主の部屋に入るのが本当らしいのだが、さすがにそれは赤司に頼みこんで折れてもらった。

「その呼び方やめてください」
「おや、どうしてですか。テツヤ様は僕のご主人さまです。こうお呼びするのが普通でしょう」
「二人でいる時は普通に喋ってください。これは命令です」

 シャツのボタンを一つずつ留めていく赤司に、黒子は苦い顔をしながら当主としての威厳を込めて命令すれば、ようやく赤司はそれを了承する。それでも、駄々をこねる子どもをあやす母親の様な顔でため息を吐きながら頷くのだ。
 彼がその表情をする度に、形容しがたい感情が黒子の胸を這った。

「テツヤ、朝食はどうする?」
「卵はオムレツで、あと温かいスープが飲みたいです」
「わかった、すぐに用意するよ」

 白のカッターシャツの上から詰襟に腕を通した黒子の肩を軽く払い、赤司は部屋を出て行った。
 詰襟にはまだ慣れることが出来ない。息苦しさを感じて首元を緩めようとするが、赤司の眼を思い出して緩めかけた手をとめた。
 テツヤ様は黒子家の次期当主になられるお方です、それ相応の振る舞いをお願い致します。これは幼なじみであり親戚であり執事である赤司から常々投げかけられている言葉だ。
 黒子よりも、否、周りのどんな人間よりも優秀で上に立つべき人間である彼が、いくら本家の嫡男とは言え零落した家の執事などをやっていて良いのだろうか。黒子はそのことをいつも気にしているのだが、それを口に出すと決まって彼は驚くくらい綺麗に笑って見せるから、その内に言葉にするのをやめてしまった。
 鮮やかな椿のような赤い髪に、色の違う双眸はいつだって曇りがなくて真実と未来を見据えている。青空が降ってきたような声色と聴衆を魅了する言い回し、にじみ出る自信は彼を身体以上に大きく見せた。指先の動きまで優雅であり、彼こそが名家の嫡男だと言われてそれを疑問に思う者はいない。
 だが、そんな彼が付き従うのは取り立てて取り柄のない、地味で目立たない黒子テツヤなのだ。
 物心ついた時から、黒子と赤司は一緒にいた。今考えれば、分家の息子であった赤司は親からの言い付けで黒子についていたのだろうが、当時の黒子にはそれでも赤司の存在が嬉しくて堪らなかった。無口で自己主張も少なく、見た目に反して頑固で融通のきかない黒子は、名家の息子と言うこともあり友達がいなかった。
 幼稚舎も小学校にあがってからも、級友たちは黒子を遠巻きに見つめるだけ。最初こそ黒子の坊ちゃんだと腫れものを触るような扱いをされるのだが、権力者らしからぬ影の薄さに、すぐに存在すら忘れられるようになってしまう。だから、黒子テツヤには友達がいなかった。
 初めて赤司征十郎と出会った時、なんて綺麗な人なのだろうと思ったことを、黒子は昨日のことのように思い出すことが出来た。
 あれは確か冬の日、薄らと積もった雪に朝日が反射して、彼の鮮やかな赤髪を照らす。一文字に結ばれた口元には意志の強さが表れており、切れ長の眼は一点をじっと見据えている。彼があまりに綺麗で母親の後ろに隠れた黒子の手を取って、彼がやんわりと笑ってくれたあの日から、黒子にとって赤司は特別になった。たとえ、彼が彼の意志で傍にいてくれていないのだとしても。
 赤司が今でも黒子の傍にいてくれることを黒子は誇りに思っていた。だが、それと同時に彼はここにいる人間ではないとも思っていた。没落した黒子家に代わり、赤司家の当主として他の分家をまとめる長となるべきであると。
 とてもではないが、父親似の自分にその才覚はない。七代続いた家を、一代で零落させた父親だ。その息子である自分も責任を取らなくてはいけない、そう考えている。
 手放したくないが、離れて欲しい。赤司の家に戻って欲しいが、傍にいて欲しい。赤司を見る度に、相反する感情が黒子の胸の中に波のように押し寄せては引いていく。それはきっと、赤司とて気付いているのだろうが、彼は何も言わない。

「テツヤ、朝食の用意が出来たよ」

 二人だけの小さな屋敷に彼の声が響く。両親はとっくにどこかに姿を消してしまっている。そう、黒子には赤司しかいない。だから、彼を易々と手放すことができないでいるのだ。
 雨上がりの虹みたいに笑う彼に曖昧に頷き、朝食をとるために黒子は部屋を出た。



 小さな町だ。余所からの転入者も滅多にいない。黒子達の噂はすぐに町中に知れ渡った。
 思い上がった元華族のなれの果て、そう後ろ指を指されることに対して、何ら感慨はない。今までずっと、他人の感情に出来るだけ鈍感になって生きてきた。それは周囲からのプレッシャーに耐えるために幼い黒子が身につけた生きる術であったが、まさかそれがこんな形で役に立つとは思っていなかった。皮肉なものだ。
 田舎の方が人間は優しいなどと言われているが、そんなことはない。この狭いコミュニティーは実に排他的で、新参者を容赦なくはじく。それが訳ありの無愛想なのだから尚更である。級友たちは声を顰めて黒子の名を口にすることはあっても、直接黒子に話しかけることはなかった。
 それで良いと思った。今更、赤司以外の人間となど懇意に出来る筈がないと。
 赤司は黒子の学校生活を気にかけているようだが、おそらく彼も遠くないことを思っている気がした。黒子を一番に思い何よりも優先させてくれる彼だが、その思いが強すぎるせいか黒子が付き合う人間を選別したがる嫌いがある。以前一度だけ、小学校の同窓を連れてきた時、来客中は大人しく給仕をしていたのに、彼等が帰った途端にほんの少しだけ不機嫌になったのを黒子は見逃さなかった。
 赤司に不愉快な思いをさせるくらいなら、一人でいた方がずっと良い。どうせ継ぐ財産などないのだから、あの家を継ぐことはないのだ。それならば人脈を築く必要もない。そう考えながら息を殺して気配を消して日々を過ごす。そうすれば次第に級友たちは黒子のことを忘れ、黒子は影になることができた。
 そうなることを望んでいた黒子の前に、思わぬ障害が出現した。

「ねぇ、黒子クンってなんでいっつも不機嫌そうな顔してるんスか?」

 黄瀬、だっただろうか、確かそんな名前だった。目立つ男だ、顔だけは知っている。舞台役者のように整った顔立ちにすらりと伸びた日本人らしからぬ体躯と人好きする笑顔で、学校中で彼を知らぬ者はいない人気者である。
 休み時間、一人になるために非常階段に腰掛けて文庫本を読んでいた黒子の前に現れた黄瀬は、屈託のない笑顔で黒子に話しかけてきた。

「……不機嫌そうな顔をしているつもりはありません」
「嘘。だってむっすりしてさ、周りを見下してる感じっスよね」

 何の用事だろうか。無断で黒子の隣に座った彼は、尚も黒子に話しかけてくる。初めて話す相手に対する言葉とは思えない辛辣でストレートな言葉に黒子はいくらか面喰ったが、それでもその無表情がくずれることはなかった。

「他人を見下しているのは君でしょう」

 文庫本から目を逸らさずに、なるべく平坦な声で感情を込めないように言ってやれば、少しの沈黙の後にへぇと感心したような声が聞こえた。

「好き好んで一人でいるから他人に興味がないと思ってたんだけど、意外と人のこと見てるんスね」
「否定しないんですか」
「否定したって黒子クンはどうせ信じないでしょ」
「まぁ」
「なら良いじゃん。別に、君にそれを知られたからって他の人間のオレに対する評価は変わらないんだし」

 黄瀬への第一印象、酷く身勝手な男だ、以上。
 黒子が他の人間に黄瀬の隠された人間性を晒すつもりがないことを分かっていて、彼はこの実にもならない会話を楽しんでいる。聞いてもいないのに話してくれた内容を要約すると、彼はここいらで一番の金持ちの息子らしい。産まれた頃は貧しかったが、父親が事業であててここ数年で急に羽振りがよくなり、それにつれて彼の周りにも人が集まるようになってきた、そう言いながら彼は遠くを見て笑った。その横顔は少しだけ寂しそうで、黒子はシンパシーを感じないこともなかったのだが、だからと言って彼のことを好意的に受け取ることは出来なかった。
 自分が一番不幸だと思って周りを恨んで生きている人間など、好きになれる筈もない。

「成り金って奴っスよ。この町の奴らにも金振りまいてるから、この町でオレのこと悪く言う奴はいないよ。まぁ、こんなに顔の良いオレが愛想良くしてるからってのもあるけど」

 しゃあしゃあと言ってのけた彼はまた笑う。よく笑う男だな、と黒子は赤司のことを思い出した。彼は笑うが、笑わない。傍から見てああ笑っているな、と何のてらいもなく表現できる笑い方ではなく、困ったようにごく小さく笑うのだ。黒子にはそれが堪らなく好ましかった。
 早く家に帰りたい。あの小さな屋敷では、今頃赤司が庭の桔梗を数輪、花瓶に生けていることだろう。それを見て、やはり椿の方が好きだと言えば、きっと彼はまたあの笑顔を見せてくれる。

「黒子クンとオレは真逆の立ち位置にいて友達にはなれそうにないけど、だからこそ何も気にせず話すことが出来ると思わないスか」
「ボクは君と話すことは一つもありませんけど」
「はっ、辛辣っスね」

 何が面白いのか、黄瀬がくつくつと笑い肩を揺らす。ころころと表情を変えて、下品な男だ。
黒子はこの男のことが好きになれそうにないと考えた。自分が一番不幸だと思って周りを恨んで生きている人間など、好きになれる筈もない。それが同族嫌悪であることを、黒子は理解していた。



[ 52/64 ]

[*prev] [next#]
TOP



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -