黒バス | ナノ








 鬱々とした気持ちで夜を過ごした。暑さのピークはとうに過ぎ去り、夜になれば肌寒さすら感じるようになったのに、それでもなかなか寝付けずに夢と現実のはざまを行ったり来たりしていたら、いつの間にか朝になっていた。
 明日の午前中には引っ越し業者が荷物を取りに来る。今日のうちに荷物をまとめなければならない。家具電化類は全て向こうで用意してくれるらしいし、まだ荷解きが終わらずに2ヶ月間段ボールに入れたままのものもあった。2カ月しか過ごしていないこの家ではものがあまり増えなかったので、準備には然程時間はかからなさそうだ。
 講義は自主休講にして、午前中に事務所へ手続きだけしに行く。
 先月よりも高い空を見上げると、飛行機雲が浮いていた。木の葉はまだ青いが、先から色を変え始めているものもある。ゆっくりと近付く秋の気配は、意味もなくオレを物悲しい気分にさせた。
 夏が終わる。
 事務所で書類を受け取り、送迎を断ってゆっくり歩いて帰ることにした。引越しの準備で時間はないのだが、どうしてもすぐに家に帰る気にはなれなかったのだ。

「黒子っち、」

 気を抜けば零れる彼の名前に、ため息を吐く。これほどまでに自分が女々しいとは思わなかった。これじゃ、まるで恋を知らなかった男の初めての恋煩いではないか。
 ……まるで、ではないか。これは間違いなく恋煩いで、現状抱いている感情は初めてのものだから、これが初恋だと言っても良いかもしれない。こんなことを言えば、彼はばかですか、と言って笑うのだろうけれど。
昨日の晩から何も食べていないことを思い出して、食欲はないがコンビニでチャーハンとサラダを買った。レジの女の子に応援してます、と言われ、笑顔を返す。瞬間的に出る作り笑顔は職業病の一種だ。
 コンビニを出てゆっくりと歩みを進める。太陽が高いから、影が短い。その影を追いかけるように、一歩一歩前に進んだ。
 30分かけてマンションまで歩き、エレベーターではなくて階段で5階を目指す。
 もう一度だけ、502号室のチャイムを鳴らそうか。一歩ずつ階段を踏みしめながらそんなことを考えた。昨日はつい感情が高ぶってしまって勢いに任せて大声を出したりドアを叩いてしまったが、部屋の中にいたのが黒子っちじゃなかったら大迷惑極まりない。通報されてもおかしくないレベルである。
 でも、あのDMを渡さないといけないし。
 誰に言う訳でもないのにそうやって必死に言い訳を考えている自分がおかしかった。ここまで何か一つのことに思考が占領されて、必死になるのは初めてのことだ。戸惑う気持ちはあるし、心臓の痛みは大きい。だが、それでもこの気持ちは大切にした方が良いことだけは、バカなオレでも何となく分かった。
 日が暮れたらもう一度、最後にもう一度だけ502号室のチャイムを鳴らそう。これで最後だ。
 そう決意し、最後の一段を上がる。角を曲がればすぐに503号室だ。
 明るい日差しが差し込む廊下、部屋の前にうずくまる人影が目に飛び込む。水色の頭が、体育座りの膝に伏せられていた。

「黒子っち……?」

 その人影の名前を呼べば、幽霊は白昼の日差しの下で泣きそうな顔をして笑った。

「黄瀬君、おかえりなさい」
 
 ふにゃりと笑った目尻は赤い。堪らなく愛しくて、なんで急にいなくなったのかとか、君は本当は誰なの、とか、聞きたいことは山ほどあるのに、言葉が出てこない。
 座り込んだままの彼の右腕を掴み上げ、片手で鍵を開けて部屋の中に引きずりこんだ。無言のままのオレに、黒子っちは抵抗せずにじぃっとあの夏空色の目で見つめてくる。後ろ手でドアを閉めて、そのまま玄関で黒子っちを力いっぱい抱きしめた。腕の中の身体はオレよりも一回り小さいが、それでも女の子のように柔らかくはない。骨ばった固い身体は温かくて、初めて彼の手に触れた時の冷たさは全く感じられなかった。

「黒子っち、黒子っち、」

 彼の白い首筋に顔を埋めて、必死で彼の名前を呼ぶ。一瞬怯んだように腕の中の彼は身を固くしたが、すぐに縋りつくオレの背中をあの夏の夜みたいにさすってくれた。
 黒子っちから夏の匂いがして、感情を抑えきれなくてオレは思わず涙ぐむ。首筋に顔を埋めていたから、それはすぐに黒子っちにもばれて、なんで泣いているんですか、と言われたけど黒子っちの声も震えていた。
 そのまま玄関でどれくらい抱き合っていただろうか。
 夢中で彼を掻き抱くオレの背中を撫でながら、黒子っちはごめんなさい、と言った。

「なんで謝るの?」
「君のことを騙していたからです」

 離れる体温を名残惜しく思いながらも、彼の話を聞く為に身体を離す。
 ガラス玉みたいな目に真摯な光を浮かべる彼の話を聞く為に、部屋の中に入る様に促した。固いコンクリートの上で同じ態勢を取っていた所為で、身体が少しだけ痛んだ。
 黒子っちは定位置のテレビの前に正座で座り、オレはその向かいに足を崩して座る。少しの逡巡の後、黒子っちはこれまでのことを話してくれた。

「ボクは幽霊なんかじゃありません」

 淡々と、しかしはっきりとした声で黒子っちが話しを続ける。

「2か月前、黄瀬君の元彼女が、君の郵便受けに合鍵を入れていたのを見てしまったんです。それがきっかけでした。君のことは前から知っていました。ボク、学科は違うけど、君と同じ大学なんです」
「え、そうなんスか」
「はい。この影の薄さなので、君は知らなかったでしょうけどボクはずっと君を見ていました。君はいつでもきらきらしていた。でも、最近元気がないのが気になっていて」

 そんな時、君が隣に越してきたからびっくりしたんですよ。そう言って笑う黒子っちはその時のことを思い出しているのか、少しだけ遠い目をした。
 確かに、初めて黒子っちがこの部屋にいた日、黄瀬君が元気がないから出てきた、と言っていた。幽霊だなんて今思うと荒唐無稽な嘘を真顔で吐いていた訳だが、それでもオレのことを心配してくれていた気持ちは本当だった、そう黒子っちは言った。
 半開きになっていた郵便受けを開けて回収していた元カノが置いていった合い鍵を見ながら数日悩んだ彼は、日に日に表情が冴えなくなっていくオレを見て決心を決め、留守中の503号室に合鍵で忍び込んだのだと言う。

「手が死人みたいに冷たかったのは?」
「元々冷え症なので手は冷たいんです。あと、君が帰って来る直前まで保冷剤を握って用意していました。君の感情が読めると言ったのは、単に君が単純でわかりやすいからです」
「……黒子っちって言うよね」
「すみません」

 真顔で謝る黒子っちはいつものように飄々としていて、悪びれている様には見えない。だが、膝の上で握りしめられた拳が小さく震えているのを見て、彼の緊張を知った。

「犯罪だって、ひどいことをしてるって分かっていました。でも、君が笑ってくれるのが嬉しくて、ボクは幽霊のふりを続けた。君の信頼を裏切る真似をしました。本当にごめんなさい」

 俯いた黒子っちの掌は、白くなるくらいに強く握り締められていた。それが痛々しくて、静かに彼の横に移動して、握られた拳に手を重ねる。冷え症だと言っていた彼の手は、興奮の所為か温かく感じた。
 
「そりゃ、やっちゃいけないことだけど、でも黒子っちはオレのこと心配してくれたんでしょ? だからあんな嘘吐いてまでオレのことを励まそうとしてくれたんスよね?」
「……はい」
「オレが元気になったから、出てったの?」
「それは……、それもあります」

 言い淀むように口を引き結んだ黒子っちの言葉を待つ。
 黒子っちは顔を上げて、視線を左右に彷徨わせてから真っ直ぐにオレを見た。彼は、いつだってこうして真正面からオレを見据えて、オレの中身まで全部見透かすような目をする。最初は居心地の悪かったそれが、今はその目に自分が映っていると言う事実に喜びすら感じる。
 
「でも、本当は、好きな人が出来たと言った黄瀬君の言葉がショックだったから出て行ったんです」

 オレの目を見たまま続けられた言葉に、胸が熱くなった。目頭が痛い、こんなに涙腺弱くなかった筈なのに、胸が締め付けられる様に痛くて視界がぼやける。

「君のことを励まそうと思っていたくせに、黄瀬君の隣があんまり居心地が良くて、いつの間にか欲張りになってしまっていたんです。勝手に入ってきたくせに、ボクは勝手に逃げ出した」

 そう言って何かに耐える様に辛そうに眉を顰めた黒子っちの姿に、衝動的に彼を抱きしめようと腕を伸ばすが、黒子っちはそれを拒否するかのようにオレの身体を押し戻す。空を切った腕をやり場がなくて、両手を握りしめた。思いを口にするのをためらう様に口を薄く開けては閉める彼を、黙って見守った。
 黒子っちの呼吸音が聞こえる。そればかりが嫌にリアルに鼓膜に響くのに、それ以外の音はどこか非現実的だった。
 身体を押し戻された時に掴まれたシャツの前身ごろはそのままで、彼が弱く握りしめるから皺になっている。彼はまた頭を下げ、顔を伏せることではっきりと確認できるようになったうなじは、相変わらず幽霊みたいに白い。
 窓の外から子供の高い笑い声が聞こえてきて、その直後、黒子っちは口をきつく結んだまま勢い良く顔を上げた。大きく息を吸い、シャツを掴んだままの掌に力が込められる。

「黄瀬君のことが、好きです」

 強い瞳でそう告げられて、我慢出来ずにやり場を失くして握りしめたままにしていた両手をそのまま彼に伸ばした。力いっぱい彼の背中を掻き抱くが、今度は拒絶されずにあっさりと受け入れられる。
 喉の奥が痺れて、視界がぶれる。側頭部が酷く痛んだ。次々と溢れてくる涙で、黒子っちの肩口を濡らした。嗚咽を漏らしながら泣きだしたオレにびっくりしたのか、黒子っちは少しだけ余裕を取り戻した様にオレの背中を撫でてくれる。黄瀬君は泣き虫ですね、と呟いた声は、まるで独り言みたいだった。

「そうだよ、オレ、泣き虫なんス。だから、黒子っちが側にいて慰めてくれないと困るんス」

 きっと酷く醜い顔をしている。綺麗だかっこいいだと騒がれる顔面が、今は溢れる涙と慕情でだらしなく緩んだ笑顔で目もあてられないことになっているんだろうな、とぼんやりと考えた。

「オレ、黒子っちが好きです」

 顔見せてください、と言われてゆっくりと顔を上げる。目があった瞬間にふっと笑われてしまった。酷い顔をしている自覚はあるが、それにしても泣いてる人間の顔を見て笑うなんて酷いじゃないか。ぼろぼろと零れる涙はまだ止まらないが、唇を引き結んで抗議の態度を示すと、それに対してさえも黒子っちは面白そうにくすくすと笑った。

「黄瀬君、顔面がだらしないです」
「黒子っちの所為なんスけど」
「そうですね、だから責任はとります」

 そう言って、オレの涙を拭ってくれる。零れる度に何回も、何回も、優しく目元を拭う指先の温度は温かい。

「ボクの隣にいてください」

 そう言って笑った黒子っちが、涙で見えなくなった。





 引越しの準備が全然終わっていないことを知った黒子っちに尻を叩かれながら準備を始めて、終わったのは朝の5時だった。
 オレとしては、思いが通じ合った恋人同士の甘いひと時を期待していたのだが、それを口にすると黒子っちはまるで汚物を見るみたいな目でオレを見下ろした。ひどい。幽霊の方がよっぽど優しい。

「ほら、黄瀬君起きてください。業者さんが来ますよ」

 カーテンが開く音と同時に差し込む太陽光が、寝不足の瞼を通して眼球に刺さる。
 薄らと目を開けながら手をふらふらと伸ばすと、冷たい指を絡められた。

「はやく起きてください」
「黒子っち、」
「何ですか?」
「好きだよ」

 朝になっても傍にいてくれる元幽霊にそう告げれば、絡んだ指先の温度がどんどん上昇していく。
 一緒に引っ越そうと言うオレの誘いに、終ぞ黒子っちが首を縦に振ることはなかった。恋人にはなったが、芸能人と一般人、けじめはしっかりつけたいと言った黒子っちの目は真剣で、意志を曲げるつもりがないことが見て取れた。
 こうなったら仕方ない。ここからは長期戦だ。口説き落とす時間なら、いくらだってある。

「あ、そうだ、これあげる」
「これは、」
「この部屋の合い鍵返してもらったから、代わりにこっちあげるね。新しい部屋の合い鍵っス」

 手の上の鍵を見つめる黒子っちの空色の髪が朝日に透けて輝く。それがとても綺麗だと思った。

「これからもよろしくね、オレの幽霊さん」


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