黒バス | ナノ






「ただいま、黒子っち」

 好きな子が出来た、と黒子っちに伝えたその次の日、食事は出来ないと言ってはいたがもしかしたらこれなら、とバニラシェイクを買って帰ったオレをいつもなら迎えてくれる黒子っちがどこにもいなかった。
 名前を呼んで、狭いワンルームを見渡してもどこにも姿が見当たらない。黒子っちはこの部屋の地縛霊だ。この部屋の外には出られないと言っていた。どうしたんだろうか。何回も名前を呼んで、風呂場もトイレも洗濯機も冷蔵庫の中も全部探してみたけど、彼はどこにもいなかった。

「黒子っち、」

 結局その日、黒子っちがオレの前に現れることはなかった。
 明日になればまた、体育座りでテレビを見ながら、振り向いておかえりさないって言ってくれる。
 そう信じていたが、それから黒子っちが再びオレの前に現れることがなかった。



 幽霊との奇妙な同居生活がその名残を残さないまま強制終了して、それでもオレの生活は何一つ変わらずに進んでいく。
 当然だ、誰も彼のことを知らないし、503号室でのあの一カ月はオレと彼だけのものだったのだ。誰もオレが幽霊と同居していたことも、幽霊に恋をしていたことも知らない。
 姿を見せてくれなくなってからも、気が付けば無意識で彼の名前を呼んでいた。帰宅時、ドアを開けて彼の名前を呼ぶが、テレビは消えたままだし、体育座りの薄い背中も見えない。この部屋に縛られていた彼が姿を見せなくなったのが、本当はそこに居てオレに姿を見せてくれないだけなのか、それとも成仏してしまってもう彼は現世には存在しないのか、それすらも分からない。
 もしかしたらそこにいるかも知れない彼の名前を呼ぶ時だけ、彼との繋がりを感じられた。
 毎日黒子っちの子守唄を聞きながら眠っていたから、最初こそなかなか眠りにつけずに睡眠不足に悩まされたが、それも徐々に落ち着いてきて、今では横になって瞼を閉じ、10分もすれば眠りにつくことが出来る。
彼との思い出はたくさんあるのに、それを形作るものが一つもない。
 ただこのワンルームで会話を交わして、頭を撫でて貰うだけで、写真も手紙もメールも、見返せるものが何一つないのだ。あんなに好きだった早朝みたいに透明感のある空気を孕んだ声も、夏の空を映したガラス玉の目も、白い腕も冷たい指先も、時間が経つに連れてどんどんぼやけていく。
 彼を思い出せなくなっていく。それが何より辛かった。

「お疲れ様っス」

 恋に溺れる男の気持ちが分からないと、役が掴めずに現場に迷惑ばかりをかけていた収録も、黒子っちへの恋心に気が付いてからは順調に進んでいた。慣れ合いで付き合っていた彼女が他の男に惹かれ、別れを告げられて初めてその女への気持ちに気が付くバカな男は、そのまんまオレのようだった。
 押しつけがましくせまって困らせて、笑顔が見たい一人占めしたいと縋った彼は最終的には彼女の幸せを願って身を引いていたが、オレはどうだろう。
 迫って困らせることも出来ないまま、黒子っちは消えてしまった。彼を困らせることがなかっただけマシだったのかな。

「黄瀬君お疲れ様ー! すっごく良かったよ、次の出演依頼もどんどん来てるから、これから忙しくなるわよ」

 ドラマが好評で、それに伴ってオレのメディアへの露出も増えてきている。クランクインした時は電車移動だったのに、今ではマネージャーさんの送迎付きだ。
 モデルだけをしていた時とは、世間からの認知度が比べ物にならない。いつ住所を調べたファンに押しかけられるか分からない。まだ越したばかりのワンルームだが、セキュリティの問題があるから事務所で借り上げているマンションに引っ越す様にと言われたのが今朝のことだった。
 あの部屋を離れることは、完全に黒子っちとの関わりが絶たれることと同意だった。
 引越しは嫌だと渋ったが、事務所がオレのことを心配してくれていることも、セキュリティーの面や、顔を合わせたことがない近隣住民への迷惑を鑑みると実際にあそこに住み続けることの難しさも理解できる。数十分の説得の後に首を縦に振った。引越しは3日後、急な話だが、出来るだけ早めに、と言う事務所側の意向だ。費用は全て持ってもらうので、文句は言えない。
 溜まった郵便物を取って、エレベーターのボタンを押す。ゆっくりと数字が小さくなっていくのを見ながらエレベーターを待った。エレベーターが下ってくる時間すらも待ちきれなくて、階段を駆け上っていたあの時を思い返す。あんなクソ暑い中、よくやったもんだ。
 でも、もし今でも黒子っちが部屋でオレの帰りを待ってくれていたなら、今でも階段を駆け上るんだろうけど。

「ただいまー」

 黒子っちがいなくなって一カ月、それでもオレは、帰宅時にただいま、と言うのをやめられずにいた。
 カーテンを閉めて、郵便物をテーブルの上に置く。帰宅してから真っ先にテレビをつけるのが習慣になってしまった。着替えて、軽くシャワーを浴びて、冷蔵庫から缶ビールを出す。
 DM類に一通り目を通して、いらないものを処分していると、オレ宛ての郵便物に502号室宛ての郵便物が混じっていて、その宛名を見た瞬間に心臓が止まった。息をするのも忘れて、その名前をなぞる。

「502号室、黒子テツヤ様、」

 これはどう言うことだろうか。不意打ちに見た彼の名前に、止まった心臓がバクバクとうるさく鳴り始める。文字にした彼の名前を見るのは初めてだから若干の違和感はあるものの、これは間違いなく一カ月を一緒に過ごしたうちの幽霊の名前だ。
 彼は自分のことを地縛霊だと言った。その土地、場所に執着して留まる地縛霊だから、この部屋からは出れないと。
 もし、彼がこの503号室で何らかの原因でその命を失ったとすれば、503号室の黒子テツヤ宛てに郵便物が届くのはまだ頷ける。だが、このDMは502号室宛てなのだ。単にこのDMに書かれた住所が間違っているのか、それとも、黒子テツヤは本当に502号室の住人なのか。
 黒子テツヤが502号室の住人だとしたら。彼が502号室で絶命していたとして、それならばここではなく502号室に地縛霊として憑くことになるのではないか。冷たい指先、ともすれば目の前に居るのに見失いそうになる存在感の薄さ、勘の良さ。そして、夕方以降に現れて、朝になると忽然と消える。鍵を開けて出て行っているんじゃないかと疑ったこともあったが、鍵はいつでもかかったままだった。だから、オレは彼が言う言葉を信じた。何より、あんなに一緒に居て居心地のいい人間には出会ったことがなかったから、幽霊だからだと納得したりもしていた。
 でも、もし、もしも、彼が実際に502号室の住人で、このDMが今も実存している彼宛てのものだとしたら。それはもしかして、彼は生きていると言う可能性を示唆しているのではないか。
 思い当たった可能性の芽に、頭が真っ白になった。
 そもそも、ここに越してきてから2ヶ月間、黒子っち宛ての郵便物は一切503号室に届いていなかった。亡くなって時間が経過していたからかもしれないが、それが今になって502号室のものが混じって来るなんて。
 考えていても埒が明かない。心臓は相変わらずうるさいが、DMを手にして部屋を出る。
 向かって右隣が502号室だ。ある程度世間からの知名度があることもあって、越してきてから隣近所に挨拶はまだしていない。504号室に大学生らしい男が入っていくのを見たことはあったが、502号室の住人とは全く面識がなかった。
 うちに紛れていた郵便物を届けに来た、それだけだ。
 ごくりと唾を飲んで、震える手を一度強く握りしめてから、インターホンを鳴らした。
 耳を澄まして中の様子を窺うが、人のいる気配はない。数秒待ってもう一度慣らして見るが、やはり反応はなかった。
 諦めて502号室宛てのDMを手にしたまま部屋に戻る。
 この手紙が、黒子っちとの最後の繋がりのように感じて、テーブルに置いたその宛名をもう一度なぞった。

 次の日の講義には、まるで身が入らなかった。
 教授の話も左から右どころか、全く耳に入って来ない。今日は午前中の講義が終わった後、マネージャーが迎えに来てテレビ雑誌の取材が2本入っている。仕事はそれだけだから、19時には家に帰れるだろう。
 あのワンルームから引っ越すのは明後日。出来るだけ早く、このもやもやを解消したか。った。幽霊でも人間でも、関係ない。ただ、黒子っちに会いたい。会って、あの夏の朝の空気みたいな声を聞きたい。あんなに鋭く肌を焼いていた日差しは、もうすっかり柔らかくなってしまった。夏の朝の温度も、忘れてしまいそうだ。
 頭を切り替えて、とはいってもそんなにうまくはいかなかったのだが、それでも元来の器用さで取材2本をこなし、マネージャーの運転する車で帰路につく。流れていく車窓を見ながら、こなした、なんて言えば、黒子っちはきっと苦い顔をするだろう、なんて考えた。
 エレベーターを待つのがじれったくて、非常階段を駆け上る。コンクリート打ちっぱなしのそこはひんやりとした空気を纏っていて、あの夏の日と微妙に重ならない。急いでいるから鍵穴にうまく鍵が入らなくて苛ついた。荷物を置いて、テーブルの上に置いたままのDMを手にとって、もう一度その宛名をなぞる。
 活字で見る彼の名前を見て湧くのは、少しの哀愁と抱えきれない愛執だった。
 まだ昼の名残は残っているが、もう日は暮れた。すぐに部屋を出て、右隣の502号室の前に立った。
 失礼だとは思ったが、ドアに耳をつけて中の様子を窺って見る。かたりとも音のしない室内には、人の気配が全く感じられない。だけど、あの幽霊のことだ、もしここにいたとしても、ドア越しに気配なんて感じさせないだろう。
 深呼吸をして、インターホンを鳴らす。室内からピンポーンと間の抜けた電子音が聞こえた。早まる心臓の音が煩い。案の定反応はない。数秒待ってからもう一度押してみるが、やはり誰も答えてくれはしない。
 左手でドアにそっと触れる。金属の冷たさがほてった指先に心地好い。その冷たさに彼の体温を思い出し、ぴたりと掌をつけてみるが、ドアは何も答えてくれない。

「黒子っち、」

 零れた言葉は無意識だった。
 自覚した途端に離れていった恋慕の対象は幽霊で、彼との繋がりを思い出せるものは手元には何一つない。あんなに毎日聞いていた声も顔も薄い背中も、今でははっきりと思い出すことすら難しくなってきた。
 黒子っちとの繋がりは、このワンルームだけで、オレは明後日にはここを離れる。そうすれば、きっともっと頭の中の彼は薄れていってしまう。

「会いたい」

 目の奥が熱くて、頭の芯が痺れる様に痛い。
 ドアに額をつけて呟いた言葉は、ただひたすらに本心だった。会いたい、黒子っちに会いたい。彼がオレの前から姿を消した理由は分からない。何も言わずに急に消えたことを責める気持ちがないかと言えば嘘になる。
 けれど、それ以上に彼に会いたかった。一か月、そのことばかりを考えてきたのだ。ドラマの役柄以上に、オレは今、恋に溺れていた。逆上せあがって、周囲が見えなくなって判断力が低下している、それでも構わない、ただ彼に会いたい。
 かたり、
 ほんの小さな音だった。ドアにつけた額から伝わった音が骨髄を揺らして脳みそを沸かす。
 音が、した。誰かが、この部屋の中に居る。

「黒子っち、ねぇ、黒子っち!」

 中にいるのが本当に彼なのかはわからない。それなのに、気が付けばオレは必死で目の前のドアを叩いていた。

「お願い、出てきて、顔を見せて! ねぇ黒子っち、オレ、黒子っちに会いたいよ」

 何度もドアを叩いて、彼の名前を呼ぶ。誰も答える気配がないのに、それでも彼の名前を呼ぶ自分は酷く惨めだった。
 うんともすんとも言わないドアに、叩く力を徐々に弱めていき、最終的には両手をドアに添えるだけになる。
 何をしているのだろうか。ここに黒子っちがいると決まった訳じゃないのに、こんなに必死になって彼の名前を呼んでいる。こんなに必死になって彼の名前を呼んでいるのに、ここにいるかもしれない彼はオレに応えてくれないのだ。恐らく、それが答えだと言うのに。

「あのね、オレ、明後日引っ越すんだ。だから最後に会えないかな」

 絞り出した言葉が、ドアを通したかどうかは分からない。
 沈黙を続ける502号室に背を向けて、オレは503号室に戻った。





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